劇場公開日 1966年7月15日

「安藤昇の二重性」男の顔は履歴書 因果さんの映画レビュー(感想・評価)

4.5安藤昇の二重性

2023年11月27日
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加藤泰は冴え渡ってるときと手癖で作ってるときの落差が激しい映画作家だが、本作に関していえば冴えに冴え渡っていた。

安藤昇といえば本物の極道から役者への転身に成功した唯一の俳優だが、その小柄さゆえ撮り方によっては単なるチンピラに映ってしまう。『やくざと抗争 実録安藤組』などは本人による「安藤昇」史の映画化であるというのに肝心の安藤昇が小物臭く、凡百の愚連隊映画と大差がなかった。

一方で本作の安藤昇にはアウトロー然とした佇まいがあった。「医師」という最も彼のイメージと懸隔のある枠組みに彼を当てはめたことが逆説的に彼の根本的なアウトロー性を浮かび上がらせたとでも言うべきか。白マスクの側面に浮かび上がる本物の傷跡にギョッとさせられる。ここでの人物造形には安藤昇の極道でもあり俳優でもあるという二重性が間違いなく意図的に彫琢されている。ゆえに本作の安藤昇はアウトローの佇まいを獲得できている。

カタギとアウトローの間を揺蕩う安藤昇と相対するのが戦後日本に跋扈する三国人集団「九天同盟」であるというのも面白い。九天同盟もまた安藤昇同様に、日帝支配への正当な憎悪と罪なき人々への不当な暴力という二重性を抱えている。ゆえに両者の間には「愛国精神の衝突」といったよくある構図に収まらない歪みがある。安藤昇はマーケットを荒らす九天同盟の面々に最後の最後まで手を出そうとしない。しかし彼らの蛮行は止まず、安藤はマーケットの日本人たちに「卑怯者」と後ろ指をさされる。歯がゆい二律背反に苛まれながらも平静さを装って第三の道を探り続ける安藤の姿は並のチンピラとは比べようもない威厳に満ちている。

加藤泰お得意の局限的なカメラワークも、安藤の小柄さを上手いこと韜晦しつつストイックな精神性を表すものとして十全に機能していたように思う。

また『緋牡丹博徒 お竜参上』における橋上での藤純子と菅原文太の逢瀬シーンが好例だが、オブジェクトによって物理的に局限された画角の中で男女が見つめ合うというショットは擬似的な密室であり擬似的な性交だ。本作でも安藤昇が助手の看護婦と同衾するシーンがあるが、ここでも襖や壁によって彼らが画角の隅に追いやられていたことでよりエロティシズムが倍加されていたように思う。

撮影技法のみならず、現在時制と過去時制を行き来するトリッキーな物語構成もきわめて異質で面白かった。手術が始まる直前でスパッと終幕するこの感じ、何かすごい見覚えがあるなと思ったら手塚治虫の『ブラック・ジャック』だな…『ブラック・ジャック』の連載が始まるのは70年代で、本作は66年の制作なのでもしかしたら手塚治虫は本作に何らかのインスピレーションを受けたのかもしれない。

因果