劇場公開日 1991年11月25日

「聖俗が入り混じる街」王手 因果さんの映画レビュー(感想・評価)

4.5聖俗が入り混じる街

2023年4月14日
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阪本順治の聖俗がフラットに相互嵌入し合う不可思議な作風にはやはり大阪という街(梅田や中之島ではなく難波や新世界)がよく似合う。通天閣は博奕打ちだろうが金貸しだろうが分け隔てなく受け入れる人情の象徴にもなれば、此岸と彼岸が不気味に融和した霊的世界にもなる。実は生粋の大阪人ではないことを暴露した飛田に対して中華料理屋のオーナー役の金子信雄が「その辺にいっぺんでもションベンひっかけたことある奴なら誰でもここ(大阪)におる資格あんねん」と言っていたように、よそからやってくる何もかもを「まあええわ」で許容するのが大阪という街だ。

阪本はこうした大阪の特性に全力で凭れ掛かる。彼の構想する緻密さも現実性も整合性もかなぐり捨てた勢い任せの物語は、日本の中で大阪以外ではまず成立しない。それを知っているからこそ全力で大阪を信じる。その信念のブレなさが、物語論に関わる多少のブレを一切合切吹き飛ばす。女の描き方が雑じゃないですか?とか、そんな簡単にプロは倒せませんよ?とか、そないなことどうでもええねん。

とはいえ本作がひたすらに勢いだけの映画であるとするならば、それは初期の石井岳龍か塚本晋也のような俗悪な空転を演じかねない。しかし先に述べたように阪本は俗もやれば聖もやる。本作において散見される長回しは、俗気の独り歩きを中和する聖性として発露する。駒を置く音だけが響く将棋の試合はその好例だ。「まあええわ」的大阪根性はしばし鳴りを潜め、それまで騒ぎ散らしていた人々も固唾を呑んで試合の動向を見守る。ここに緩急が激しすぎるが故のちぐはぐさが生じないのは、やはり大阪という風土の懐深さゆえか。

因果