「二人の距離に燻るは、和解ではなく憎悪の残火」永遠の人 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
二人の距離に燻るは、和解ではなく憎悪の残火
異様な緊張が全編に漲った圧巻の憎悪劇だった。間違っても愛憎劇ではない。憎悪劇。
さだ子と平兵衛が互いに向け合う憎悪は、さだ子の想い人である隆とその妻であり小清水家の女中である友子や、二人の3人の子供(栄一、守人、直子)といった周辺人物にも波及する。それによって二人がそれぞれ抱く憎悪の善悪の基準は絶えず混線し、錯綜し、やがて誰が善人で誰が悪人であるのかが曖昧になっていく。もはや大義名分を喪失した憎悪はひたすらに増長し、狂った化物のごとく周囲の人間を次々に不幸へと陥れていく。己の恥ずべき出生を知り自ら命を絶った栄一、兄の死を母の憎悪のせいだと詰る守人、そして年を重ねるごとに弛緩するどころかますます張り詰めていく小清水家の空気。
地獄のような夫婦生活の開始から28年が経過したある夏、隆が病に倒れる。さだ子は生と死の淵を彷徨う彼を懸命に看病する。そのうち隆が息も絶え絶えに自分の人生を回顧しはじめる。そしてあれだけ憎悪していた元妻の友子に「かわいそうなことをした」と後悔を滲ませる。それはごく個人的な反省でもあり、無際限に波及していく憎悪への供養でもある。それを聞いたさだ子は、自らが生み出し、世に放ってしまった憎悪にもいよいよ歯止めをかけなければいけないと腹を括り、平兵衛に謝罪することを決意する。
ここで読み違えてはいけないのは、さだ子は全くもって平兵衛を許す気などないということだ。隆の場合、自分の息子とさだ子の娘が結ばれたことでさだ子との擬似的な結婚を果たすことができた、という人生単位のカタルシスが彼にあったからこそ、本心から「許したい」という言葉が出てきた。しかしさだ子の場合そうはいかない。平兵衛がおよそ褒めらるるべき点の何一つない自分勝手な冷血漢であることは28年の夫婦生活が証明している。さだ子は平兵衛の「人間性」なるものに関してはとうの昔に諦めている。ゆえにさだ子が打診するのは、個人的な位相での「許し合い」ではなく、憎悪の解消だ。これ以上憎悪を募らせれば、子供や周囲の人々のみならず、ようやく生まれた孫にまでそのカルマが波及してしまうことは自明だ。それだけはどうしても避けたいし、避けるべきだということをさだ子は平兵衛に力説する。そのためにもここは便宜上手打ちにしましょう、と。平兵衛は散々迷った挙句にさだ子の申し入れを承諾する。そして二人は今にも息を引き取りそうな隆の家に向かっていく。
とはいえこの憎悪の主たる原因を考えてみたとき、それはどう考えたって小清水家側の人々にある。そこを「みんな違ってみんな悪い」的な安易な相対主義で片付けてはいけないと思う。百姓一揆の頃には村人を裏切り一揆を全壊させることで地主の地位を手に入れ、許嫁のある娘を強引に犯し、子供まで産ませるような小清水家の血は到底度し難い。次男坊の守人は兄の死をさだ子が過度に平兵衛を憎悪したがゆえの悲劇と見做しているが、友人へのコンプレックスを愛情と混同し一人の女の心身を滅茶苦茶に破壊するような精神未熟者を憎まないでいられるほうがおかしい。彼もまた「兄を失った可哀想なボク」という陳腐な感傷主義にいつまでも浸っているだけの精神的未熟者にしか見えない。
終盤の玄関先でのさだ子と平兵衛の問答に関しても、さだ子の決然とした態度に比して平兵衛の幼稚さが際立つ。急拵えの美辞麗句で相手の同情を引こうとし、それが無理だとわかれば「俺は孤独だ」と仰々しく悲嘆に暮れる戦法に切り替えるというのは、自意識ばかりが尊大で相手に対する敬意が根本的に欠如していることの表れだ。平兵衛はさだ子を愛しているのではなく、結局のところ彼女を美しい宝石か彫刻品のように所持したいだけなのだと思う。隆に自慢するための。
それゆえ、上述の通り二人は最終的に「手打ち」を果たすことになるものの、その足並みは最後まで揃わない。さだ子は隆の家に向かって駆け足に去っていき、足の悪い平兵衛がそれをゆっくり追いかける。二人の距離はぐんぐんと開いていく。そしてその決定的な距離には、死ぬまで止むことのない憎悪の残火が燻っている。