劇場公開日 1964年7月4日

「奇妙なり八郎」暗殺(1964) 栗太郎さんの映画レビュー(感想・評価)

3.5奇妙なり八郎

2021年7月14日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

原作、司馬遼太郎「奇妙なり八郎」。しかし司馬さんは、みごとに清河八郎を一言で表すタイトルをつけたものだ。
映画は、原作をなぞらえた進行で出来上がってはいるが、監督の好みなのか、若干印象が異なる。竜馬が標準語に近いのもいただけない気がした。
前途洋々の男が最後に寝首を掻かれる如き終焉を迎えるのは、初期司馬作品によくみられる作風。そんな、うさん臭さが強すぎて気の毒に見えない主人公、清河。受けた恥辱の感情が歪んでいくように、清河を斬ることに囚われた佐々木唯三郎。この二人の対比は、これまた「梟の城」の二人を思わせる。
個人的な清河のイメージは、弁舌さわやかなれどもどうも実の伴わない高説を自信満々に謳いあげる鼻持ちならぬ美男子。ついで言えば、佐々木=ヒョロリ長身で冷徹でめっぽう腕の立つ官吏、山岡=ガッチリした体躯で強いながらも澄んだ眼力を持ち人を疑うことを忘れた好人物、となる。だから、この映画のキャスティングと微妙に異なる。

清河は、勤皇の同士との酒宴の席で「魁がけて またさきがけん 死出の山 まよいはせまじ 皇(すめらぎ)の道」と一句詠む。"清河幕府"を立ち上げる!とはなんともまた壮大な話で、その大風呂敷に違和感を抱かない時点で、連れ立つこの衆愚たちは清河の弁に危うさの欠片さえ覚えずに、陶酔しきっていたのだろうなあ。たぶん、徳川幕府創成期における由比正雪も、このような男だったのではないだろうか。

史実、結局清河は佐々木に討たれた。常日頃、佐々木は、弁を操り策を弄する清河を胡散臭さの塊のように憎んでいただろう。北辰一刀流の大目録皆伝をとるほどの達人ともあろう清河が、自身の近辺から敵意を持って伺う眼差しに気づかなかったのは迂闊だったのだ。小説では、最後に佐々木が「清河、みたか」と吐き捨てる。そこに田舎郷士に後れを取った腹いせが垣間見える。ただこの暗殺というクライマックスシーンを描くにおいて、映画では、待ち伏せて出くわす場面からしかない。"酒の香りがむせる"、とナレーションでも言った通り、それは直前に上之山藩士金子を訪れ酒を振る舞われた帰りであり、だからこそこに清河の油断(司馬は"素朴"と表現している)があったわけで、佐々木一党が現れた時点で、観客にも「しまった」と思わせるためには、振舞い酒の場面が欲しかったなあ。

それにつけても、さすが’64の作品だけあって、江戸や京都の街並みの風情を残すロケ地の良さよ。今、この映画を撮り直すとしても、あんな泥臭くって狭っ苦しくて古ぼけたセットなんぞ作れやしまいなあ。これだけでも一見の価値あり。

栗太郎