赤線地帯のレビュー・感想・評価
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吉原の夢
溝口健二監督作品。
傑作です。私は「はじめて」群像劇をみたのかもしれない。
吉原にある特殊飲食店「夢の里」で娼婦として生きる彼女たち。
娼婦と言えば、いまだステレオタイプな眼差しを向けられてしまう。
それは彼女らを性商品としてみる眼差しでもあるだろう。「売春」とは男と女が損得勘定で身体と金銭を交換する行為である。つまりその交換が行えれば、それ以上でもそれ以下でもない。それは後腐れのない関係とも言えるが、極めて冷たく乾いた関係である。
だけど彼女らが金銭を得る目的は多様である。貧乏と言っても、田舎で仕事がなかったから、夫が病障害を患ったから、子どもを育てるため、親との因縁があるからとそれぞれの事情がある。もちろん自堕落で金遣いが荒いからというものもある。ミッチーのように。だけど彼女らをみていると、私たちとどれだけの違いがあるのか分からない。私たちにも生活の事情があって、欲望を持ちエゴイズムに傾く行動をしているはずである。
つまり彼女らも「人間」なのである。そして本作では「売春」という冷たく乾いた行為から、逆説的に吉原という地縁の中で生きる「人間」を描いているのである。それも主人公ひとりでは描けない「娼婦として生きること」の多層性を群像劇という手法を使って巧みに物語っているのである。
彼女らの顛末は悲喜劇の両側面を持つ。
吉原から逃げるも、戻ってきてしまう、戻らざるを得ないこと。彼女の献身が翻って子との同居が実現しないこと。夫は自殺未遂を果たし、経済的困窮から脱せないこと。夢の霧散。ゆめ子が精神に異常をきたし、夢の中に閉じ込められるのは悲壮だ。だがやすみだけは違う。売春関係から家族関係になるよう迫られた客を騙し金銭を得て、トラブルになって殺されかけても懸命に生きる。売春業から手を洗い、貸布団屋の事業をするのは夢の実現だ。
このように彼女らの顛末を多面的に描くことで、吉原での夢が夢であり続けることができる。成功する者も失敗する者もいる。そしてそれは吉原の世界に留まらず、どこの世界でも同じ普遍的なことであろう。
このように言えるのも吉原という舞台の描き方が巧みだからであろう。
吉原を単なる男と女が「売春」をする夢の世界とは描かない。むしろ売春防止法という政治的な情勢が大きく影響する重力を持つ場所として描かれている。だから登場人物の心や生活の葛藤と解消にまつわる物語のみではなくもっと普遍的なことが物語られているのである。
やすみが夢を実現したことで下働きのしず子が代わりとなる。着物姿で化粧を施される彼女。吉原の夢がまた繰り返される。
赤線があった当時を知るのにいい
赤線のイメージは、江戸時代の吉原物の延長のように思っていたが、この映画を見て改めることができた。花魁とは違って、何とか生き抜こうとする普通の女たちの物語だった。
汚職で逮捕された父の保釈金を払うために身を落としたやす子(若尾文子)、親への反発で黒人兵を相手してパンパンガールになっていたミッキー(京マチ子)、旦那に死なれ、貧乏な祖祖父母、一人息子の修一のために働くゆめ子(三益愛子)、病弱で失業した夫と赤ん坊を養うために通いで働くハナエ(木暮美千代)、売春防止法によって借金がチャラになると聞き、思いを寄せていた男に身を寄せるより子(町田博子)。
売春防止法が成立、施行されれば、明日から体を売ることができなくなり、他に稼ぐ手立てがない女たち。事業主の「ゆめの里」の夫婦は、人助けと思ってやっているんだよって欺瞞を吐く。彼女らは、生き抜くため、金を稼ぐために、道行く人に黄色い声で客引きし、愛想や毒を振りまき、逞しく生きている。客に見せる姿と現実のギャップが凄かった。
前半は、主に店の様子が描かれ、それぞれの女のキャラクターや羽振りなどを扱っている。それが後半になると、各個人の事情にフォーカスして、その問題や末路が描かれていた。メリヤス屋のにこにこ堂の主人や支配人に色目を使って貢がせていたが、所帯をもち足抜するために金が必要と支配人に持ち掛け、首を絞め殺されかけるやす子。噂が聞こえていき、家の評判に傷がつくといって引き取りに来た父に対して、母に苦労ばっかりさせてと邪険に返すミッキー。田舎まで母の噂が聞こえていき、いたたまれなくなって都会に飛び出してきた息子に縁を切ると言われ狂ってコンクリート製の精神病院に入れられるゆめ子。家賃が払えず赤子を連れて行く当てもない夫をなだめ、事業主に借金をお願いしようとするハナエ。身を寄せた男の家で、奴隷のようにこき使われて「夢の里」へ戻ってくるより子。
多くは夫や家族の犠牲となって、最後の手段として「夢の里」に流れてきたのだ。とかく汚らわしい商売とみられるが、それぞれの事情は切実。唯一汚い方法で男から金を巻き上げたやす子だけが、つぶれた「にこにこ堂」の後釜に収まって、店を切り盛りし始める。男で身をやつしたのだから、男からむしりとってもいいという論理か。特別なコネや運がない限りは、汚い手を使わないと這い上がれないっていうことか。
「赤線」の人間模様を描きながら、当時の社会が抱える男尊女卑、女性の置かれた立場、男に頼らずに生きる大変さが等が描かれていた。
今の日本、豊かになると同時に、性の産業の有り方も随分と変わってしまった。性が軽く売られるようになったのを、どう考えたらいいのか?難しい。
女子に対する補導処分
『性行又は環境に照して売春を行うおそれのある女子に対する補導処分』
売春防止法の抜粋だが、この条文は今も変わらない。言うまでも無いが、女子に対する補導処分でしかない。つまり、現在も曖昧な部分は残されたままである。
この映画の上映時は売春防止法は廃止されている(5月だから、まだですね。凄い、それでこの表現)が、赤線がまだ廃止される以前の話。それを考慮すると、
黛敏郎先生の不協和音の音楽が良く似合う。醜い日本文化の一片を象徴していると言える。そして、今語られる女性の地位向上が荒唐無稽な事と感じてしまう。
ネタバレ♥
ためらいながら道を行く男に誘いをかける少女の姿が『もっと絶望を楽しもうよ』って語っている様に思えた。やるせない。そして残念ながら、少女の終末はまだ続いている。
傑作だと思う。
滅びゆく景色と女たちの群像
Amazon Prime Video(シネマコレクション by KADOKAWA)で鑑賞。
売春禁止法制定目前の世相を背景に、赤線地帯・吉原で働く娼婦たちの群像を格調高き映像美で描き出した文芸作にして、巨匠・溝口健二監督の遺作となった名編。
特定の主役を設けず、5人の個性的な娼婦たちの姿を描く手法が秀逸でした。視点の切り替わる瞬間が自然な流れの中で行われて無駄が無く、テンポがとても良かったです。
不安を煽って来る劇中音楽は、まるで「ウルトラQ」のようで、得体の知れなさがハンパじゃない。赤線の異世界感も曲のイメージに加味されているのかもなと思いました。
様々な事情を抱えて体を売る女たち。生きるために。夢見るために。しかし、その仕事が失われようとしている。彼女たちは如何にして生活すれば良いのか?―金が無いと生きていけない。だが、その稼ぎの場所が無くなったら?
法案成立が流れたことも、単なる一時しのぎに過ぎない。滅びの足音は刻一刻と彼女たちに忍び寄って来ていました。しかし、体を売ることしか手段の無い女たちは、言い知れぬ不安を感じながらも街頭に立って客を呼び込む。
なんとも言えない切なさでした。
※修正(2023/03/27)
タイトルなし(ネタバレ)
音楽が印象的。
女性たちのキャラがかなりたっていた。
昔の日本映画にありがちだけど、ちょっとセリフが聞き取りにくい。
女性陣がみんな個性的で美しく、
ラストシーンも印象的。
吉原で“働く”女たちのバイタリティー
“吉原”=花魁のイメージしかなかった私は、江戸時代の華やかな遊郭とは別の、庶民の生活に根付いた(?)戦後の貸座敷の風景が衝撃的だった。しかも本作制作当時は、正に売春防止法が施行されようとする矢先で、先行き不安な娼妓の日々の生活をリアルに描いている。ここで春を売る女達は様々な目的を持っている。店を持つために金を貯める者、結婚を夢見る者、息子と暮らすことを夢見る者、道楽な父親へ反発する者、病気の夫と乳飲み子を抱えながらいつかこんな生活から抜け出そうと思っている者。名女優達の競演が華やかかつダイナミックだ(特に京マチ子と若尾文子が美しくもしたたかで良い。生活に疲れた風の小暮実千代も好演)。大切な息子から「汚らわしい」と拒絶されて精神に異常を来す者や、病気の夫が自殺未遂を起こしたりと哀しい出来事も多々あるが、この女たちは皆逞しい。何より興味深いのは、売春が公認だったこの時代の娼妓たちの価値観だ。とかく現代では売春は女性にとって最低の行為とみなされがちだが、本作の女たちは皆プライドを持っている。特に印象的なエピソードは2つ。まずは、普通の結婚を夢見ているより江。仲間の助けもあって店を逃げ出し、無事に田舎で所帯を持ったのだが、この人は絶対戻ってくるなと思って観ていたら案の定、再び店に舞い戻ってくる。私は、元売春婦として軽蔑され苛められて泣く泣く戻って来ると思っていた。しかし彼女は、結婚生活のあまりの貧しさに耐えかねて、自分の意志でこの生活に戻ってきたのだ。これは一見自堕落な生活を忘れらないからと思われがちだが、そうではなく、自分でお金を稼げる“職業”についていた女性の自立心がそうさせたのだと思う。結婚前、彼女は夫に頼らずともそれなりの生活ができる身分だった。しかし専業主婦になったとたん、貧乏暮らしを余儀なくされる。嫁ぎ先が元々貧乏なのもあるが、一家を養えない不甲斐ない亭主に愛想をつかすのは当たり前と言えば当たり前なのだ。もう1つは親の借金のかたで身売りされてこの店に来たしず子。無邪気に天丼をほうばっていたまだ幼いと言っても良いほどの少女。派手な着物と化粧で初めて店に立つ彼女。彼女はきっと怖くなって逃げ出すだろうと考えた私の予想はここでも裏切られた。彼女はおずおずと手を差し出して男を呼び込むのだ。こんな幼い少女でも、この町で“働く”という意味を理解し、それを受け入れようとしている。このラストシーンにものすごい衝撃を受けた。映画公開2年後に売春禁止法が可決された。彼女たちはどうなったのだろう?小暮演じるハナエのセリフが蘇る。「死んでなるものか、生きてこの先の世の中を見届けてやるんだ」と。本作は決して売春婦たちの不幸を描くものではない。女性を描き続けてきた溝口監督の遺作にふさわしい、女性礼賛映画なのだ。
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