「激愛と反戦の中で」赤い天使 近大さんの映画レビュー(感想・評価)
激愛と反戦の中で
増村保造監督×若尾文子のコンビによる1966年の作品。
これが初見だったか再見だったかあやふやだが、今尚色褪せない衝撃作。
今見てもそうなのだから、当時の衝撃は如何なるほどだったのか。
日中戦争激下の昭和14年。従軍看護師の西さくらは、中国の野戦病院に赴任する。
そこで目の当たりし、体験した地獄のような戦争の惨状。
次々運ばれてくる負傷兵。その対応や看護に追われる。
重傷の兵士もいれば、怪我も癒え傍若無人の兵士も。目をギラつかせながら。
ある時さくらは、一人の兵士にレイプされる。
お国の為に闘った英雄像など微塵もナシ。獣のように欲望剥き出し。
さくらは前線へ。そこで自分をレイプした兵士と再会。瀕死の状態で輸血をしなければ助からない。
軍医に頼み込み、輸血。が、ほどなく死亡。
この時のさくらの胸中はどう捉えるべきか。
自分をレイプした男。それでも看護師として本当に助けたかったのか。それとも、自分をレイプした男をこのままみすみす死なせてなるものか。名誉の戦死などではなく、この男に相応しい死を与える為に、今は生かして…。
前線の惨状はさらに凄まじく。
運ばれてくる負傷兵に対し、医師も看護師も何もかも足りない、追い付かない。
負傷兵の処置は、全て軍医の即判断。
助かる見込みのある負傷兵には手術が行われるが、無論麻酔なども全く足りない。手足の切断手術も麻酔ナシで。まるで精肉工場でただひたすら肉を切るかのように手足を切り落としていく軍医。
助かる見込みの無い負傷兵はバッサリ切り捨て。
それも命が助かる/助からないの理由ではなく、また戦場で闘えるか否か。
兵士は単なる戦争の道具。まだ使えるのなら善し、使えぬのなら…。
両腕を失った若い兵士。
それ故女性の身体を自分の手で触れる事が出来ない。性の悦びを感じる事が出来ない。
同情したさくらは我が身を奉仕する。身体を重ね合わせたり、局部に触れて悦びを感じさせたり。
が、却ってそれが不幸を招いてしまった。
男として自分一人で性の悦びを得る事が出来ず、無力と無能に陥った彼は自殺する。
極限戦時下の性事情を赤裸々に。
この兵士も含め他の兵士も一時帰還が許される身。が、その許可が下りない。
もし帰還したら身体の一部を失った姿が周囲の人々にショックを与え、戦意の意気が下がる。帰還しても人目に付かぬよう隔離される。
初めて知った不条理さに衝撃を受けた。
戦慄級の戦争映画であると同時に、壮絶な愛の物語でもある。
軍医の岡部。兵士として使えるか否かで処置を行うか独断し、冷徹。非常に厳しくもある。
しかし、ヤワじゃこの地獄では仕事を続けられない。強靭な精神力。
そんな岡部に惹かれていくさくら。
岡部の体力も精神も支えているのは、モルヒネ。
が、過剰摂取により岡部は性的不能者に。岡部もさくらに惹かれつつ、抱く事が出来ない。
岡部からのモルヒネ投与命令を拒むさくら。
禁断症状を経て、性欲が戻った岡部。
二人は激しく愛し合う。
多くの兵士が負傷し、死に、地獄絵図のような最前線。
その渦中で戯れる二人に思わずツッコミたくなるが、二人が結ばれたのはこのほんの一時。
直後の悲劇を思うと…。
塚本晋也監督の『野火』を見た時のような。心底恐ろしい戦争描写。
それらを通して鮮烈に、凄まじく突き付ける反戦映画。日本の反戦映画の中でもトップレベル。
最前線の最悪の一つ、病。コレラ。
感染した慰安婦。
今なら賛否巻き起こしそうな描写も媚びる事無く。
愛の物語としても、様々な激愛の形を描いてきた増村×若尾コンビだからこそ。この名コンビの作品を全て見た訳ではないが、間違いなく最高傑作の一つだろう。
遂に敵襲。
生きるか死ぬかだけの混乱。散り散りに。
後輩看護師は被弾し、亡骸を見つけた時、衣服を脱がされたその姿。
岡部と“再会”。が、その時すでにもう…。
人の中の獣性が歯止めが利かなくなる。
性や欲が剥き出しになる。
地は赤く染まり、死が蔓延る。
育まれた愛さえも葬られる。
戦争は全てを露にする。全てを失う。
そこには何も残らない。
戦争が残すのは…。
噂には聞いていた映画です。この映画のことかと思いました。自分の血を見るだけでも気が遠のく私です。観たい気持ちはあるのですが、恐ろしくて気持ちが萎えます。と言ってスクリーンでも見たいし。