劇場公開日 2007年11月10日

「じわる」転々 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)

5.0じわる

2022年7月31日
PCから投稿

日本映画の課題としてどやの払拭があると思う。
どやとは承認欲求のようなものだ。

たとえばテレビドラマのSPECはさいしょのころは面白かった。
だが、だんだん疲弊して、やがてあざとさを感じるようになった。

『(中略)一方、今井舞は同じく『週刊文春』のドラマ記事で「今期ワースト」「全てが『これ、面白いでしょ』の押しつけ」などと批判している。』
(ウィキペディア「SPEC〜警視庁公安部公安第五課 未詳事件特別対策係事件簿〜」より)

どやとは謂わば「『これ、面白いでしょ』の押しつけ」のことだ。

“奇”をえがくとき、あるいはバイオレンスやSFやはっちゃけたorぶっとんだ設定を表現するばあい、日本映画ではつくりての勝ち誇り=どやがかならず見えてしまう。──ばかりか、それに価値をおいていることさえある。

たとえば北野武のアウトレイジには“威嚇”の目的がある。
北野武はバイオレンス映画の製作をつうじて「おれはこわい奴なんだぞ、なれなれしくすんなや」と言いたいわけ。

北野武のみならず、多くの日本のバイオレンス映画において、作家はかならずしもそれをつくりたかったわけではない。
過剰なバイオレンス描写をつうじて、じぶんの立場に箔をつけることが目的なのだ。とうぜんどやは丸見えになる。
たとえば園子温の映画ではどのカットにもずっと監督の得意顔が見えてしまう。

よってどやの払拭は日本映画の課題といえる──のだが、むろんそれは観衆の側からみた課題であって、つくり手であるほとんどの監督方々はそんなことは考えていないだろう。

ところで三木聡監督の映画にはどやを感じない。
唯一無二のへんな映画をつくる作家だが、“奇”なことを「どやっている」気配がない。

三木聡映画の特長として、暴力や性や差別的表現のなさがあげられる。というか、登場人物には社会性がまるでない。どうやって生きているのか、解らない。意識的に、人間臭を排除している。その頑なな態度は作家性だと思う。三木聡映画は三木聡がつくったことがわかる意匠をもっている。

とはいえ形容するのはむずかしい。
新劇や小劇場に親しんでいるひとなら演劇的と思うのかもしれない。
ストーリー上に無数の小ネタが展開される。
その小ネタが、陳套なあるあるではなく、ねらっている気配が希薄で、過激/卑猥/差別がなく、どやがない──から安心して面白い。

亀は意外と速く泳ぐ(2005)、インスタント沼(2009)、なんど見ても楽しい。

本作も同等に楽しいが、たわいもないストーリー上を小ネタが波状に連射される亀やインスタントにくらべて、“家族”という比較的どっしりしたテーマが(転々には)あった。──ような気がしている。

『ジャンル分類は困難な作品で、非常に深刻な背景を持つ物語が、明るく淡々としたコメディ風味で綴られる。』──と転々のウィキペディアには書いてあるが、あらためて思い返すと転々は是枝裕和のような“家族”のはなしだったと思う。

家で集ってカレーを食べるほどなのに、オダギリジョーも三浦友和も小泉今日子も吉高由里子も、みんな赤の他人。なのに四人は家族のように温かかった。

それが狙ったペーソスなのか、ぐうぜんに醸し出されたペーソスなのかは解らないが、転々には万引き家族やベイビーブローカーとおなじ、お互いを思いやる仮家族の姿があった。

だから終局で三浦友和が去っていくところはさびしい。
たとえ短いあいだでも家族のふりをした者どうしは、ばあいによっては本物の家族よりも居心地がいい“家族”のぬくもりをおぼえてしまう──。
とはいえ転々には感動へもっていきたい気配がなかったし“どや”もなかった。にもかかわらず、じわりときた、とてもめずらしく、きわめて大人な映画だった。

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津次郎