フランドル : 映画評論・批評
2007年4月24日更新
2007年4月28日よりユーロスペースにてロードショー
主人公たちはストーリーから離れ、風景と結びついてゆく
デュモンがこれまで監督してきた「ジーザスの日々」「ユマニテ」「Twentynine Palms」には、快楽を貪るセックスがあり、レイプがあり、殺人があった。彼は、画家のように同じモチーフを使い、衝動や欲望に駆り立てられていく孤独な肉体を冷徹に見つめ、その向こうに不可視なものをとらえようとする。
新作「フランドル」でもそのモチーフに変わりはないが、デュモンの感性はさらに研ぎ澄まされ、独自の表現が際立っている。少女バルブは、男たちを次々に受け入れていく。戦場に向かったデメステルと彼の仲間たちは、まだ幼さの残る少年も殺し、女兵士を集団でレイプする。この映画では、フランドル地方と戦場というふたつの空間が対置され、デメステルとバルブの世界や体験が呼応していく。その構造は、主人公たちをこれまで以上にストーリーの枠組みから自由にすると同時に、彼らと風景をいっそう密接に結びつけていく。
それぞれに死と狂気の瀬戸際に立たされ、再会したデメステルとバルブは、ただ風景のなかにある。その未来は完全に彼らに委ねられている。ふたりは、以前と同じように孤独な肉体を生きることもできる。だからこそ、彼らの肉体から罪の意識や愛が湧き上がる神秘的な瞬間が、鮮烈な印象を残すのだ。
(大場正明)