神童 : 映画評論・批評
2007年4月17日更新
2007年4月21日よりシネマライズにてロードショー
成海璃子の存在感が全編を圧倒
心を閉ざしていた人と人が、音を媒介に間合いを計るようにして近づいていく空気を、萩生田宏治監督は絶妙にすくい取っていく。しかし、作家性よりもキャラが上回った。成海璃子扮する少女の存在感が全編を圧倒するのだ。決め台詞――あたしは音楽だから――は伊達じゃない。彼女の身体こそが“楽器”である。その瞬き少なく透き通る眼は好奇心に満ち、理不尽な世界に驚きと戸惑いを隠せず、耳を澄ますかのように刮目する。その白く長い指は鮮やかに鍵盤に踊り、伸びやかな肢体は居心地悪そうに空間を行き来する。噛み合わない心と身体は、やがてひとつに融けていく。
少女は葛藤している。それが何に対してなのかは判然としない。自らの才能、亡父の選択、母の期待、自らの運命……。原風景は、墓場のようにピアノが並ぶ広大な倉庫で父に手を引かれ良き音を探す彷徨。俗世との関わりを絶った父の幻影、いや幻聴にうろたえ、彼女は世界を受け容れることができない。変化をもたらすのは“かたわれ”である青年の存在。それは異性を求める欲求とは異質のものであり、精神の高みを目指して魂を共有する感覚。
連弾しながら少女と青年は眼と眼を合わせ、魂を確認し合う。繋がることができる相手がいる限り、死を拒み続け、生きよう。そんな決意みなぎる音色が奏でられるまで、彼女の一挙手一投足から眼が離せない。苦悩から歓喜へ。絶望から希望へ。物語の脈絡や人物の表情とは関係なく、少女の心の漂流を見つめながら、不意に涙がこぼれ落ちる瞬間があるとしたら、あなたは、映画を見続けることで不全感を埋めようとする一人かもしれない。
(清水節)