劇場公開日 2007年3月10日

「命の選別、魂の帰属先」約束の旅路 とみいじょんさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5命の選別、魂の帰属先

2024年2月21日
PCから投稿
鑑賞方法:その他

泣ける

知的

難しい

第60回記念ISSJチャリティ映画会にて鑑賞。

知人に誘われて鑑賞。
 ISSJとは、「国際的ネットワークを持つ民間の国際福祉専門機関で、第2次世界大戦後は日本国内の戦災孤児、混血児など家庭に恵まれていない子どもたちに国際養子縁組を行うことで援助してきた。近年は、ますます複雑になってきている国際福祉の問題と取り組むことができる専門ソーシャルワーカーにより」益々活動の幅を広げてきていると、イベントパンフレットより知る。

エチオピア難民・ユダヤ人・イスラエル・差別・国際養子と、たくさんのキーワードが付けられる映画。

原題『Va, vis et deviens(行け、生きろ、生まれ変われ!)』
生みの母が主人公を手放すときに、主人公にいう言葉。
母の究極なる願い。
そうして押し出された主人公の半生記。
邦題『約束の旅路』。
9歳で人生の荒波に放り出された主人公はどこに行くのか。
この映画の背景となった、モーセの『出エジプト記』によせて名づけられたモーセ作戦。
出エジプト記の約束の地はエルサレムだが、主人公の約束の地は?
邦題にある”約束”は誰との約束か?
”約束の未来”へのレールを牽かれているようで、行く先の見えない旅路。
どこへ、誰と到着するのか。

主人公の旅路の果てに安堵の救いを見るものの、ある意味、ご都合主義的にきれいにまとまっているが、ドラマ仕立ての泣かせの感動巨編的な演出ではないし、華やかな展開でもない。鑑賞後はその重いテーマに胸ふさがれた。
十数年前に鑑賞して、細部は忘れている。
でも、映画の存在自体は心の片隅にいつまでも残る。

☆ ☆ ☆

やっとたどり着いた難民キャンプ。
そこで行われる命の選別。
ユダヤ人なら、この明日をも知れない環境から抜け出す切符を手に入れられるのに、そうでない人々ははじかれる。
ショックだった。

すでに、夫と二人の子を亡くしている母は、残った一人子を手放す覚悟を決める。この切符を手にしたからと言って、その先どうなるかはわからない。けれど、少なくともここに留まるよりは生き続けられると、その切符に賭ける。
 切符を手にしつつも亡くなった子の母は、その母の願いをくみ取り、死んだわが子の代わりにその母の子を引き受ける。違法と知りながら。
 ここでの母同士のやり取りは、ほとんど視線を合わせただけだったのように記憶している。頼み込んで頼み込んでという感じではなかったような。子を死なせたくない母の願いを、子を亡くした母は瞬時にくみとったという感じ。
 二人の母の強い思い。引き継がれた願い。

そんな瞬時の出来事であり、原題にもなった母の言葉くらいしか理解せぬままに放り出された主人公。元の名を捨てさせられ、新しい名を得る。
 まだ、母が恋しい9歳。引き取ってくれた母は親身に世話を焼いてくれるものの、何が何だかわからぬままに、今の環境に適応を求められる。生きるために。母の言いつけを守るために。

だが、その引き取ってくれた母も亡くなり…。
養父母に引き取られ…。
そこでの生活も、決して順風満帆というわけにはいかない。
心はその急激な変化についていけない。抑えたくても出てくる身体症状。摂食障害。
どうにかしなければと思うほどに絡まっていく。感情はコントロールできない。
加えてイスラエル国内の状況も決して甘くはなかった。

ただ、それだけではなく…。

幸い、引き取られた家族では、ありったけの愛情を注いでくれる。
だからこその葛藤。
 今の家族から愛情を注がれても、消えぬぬくもり・原家族。
 今の環境より過酷なれど、体に染み込んでいる素足の感覚。
 記憶を無くすには思い出がありすぎる9歳。もっと幼ければ過去の記憶は、意識的には思い出さない無意識下に潜り込むのに。もっと年長であれば、状況を理解して知性化できるのに。中途半端なお年頃。
 愛されれば愛されるほど、愛し返し大切に思うからこそ、その大切な今の家族にばれてはいけない秘密。
 今の家族と原家族の間で引き裂かれる想い。どちらも捨てられぬ。
 昔の自分を消してユダヤ人ではない自分が、本当のユダヤ人になるにしても。
 誰よりも、ユダヤの律法に詳しくなっても、細心の注意を払って、らしく振舞っても、ぬぐえぬ違和感。
素晴らしい人に囲まれているからこそ感じる、底知れぬ孤独。裏切っている感触。

自分は何者なのか。心の安住の地はどこなのか。
特に、恋をし、家族を持つ頃には。

そんな、主人公の葛藤が心に残って離れない。

☆ ☆ ☆

この映画の主人公は、エチオピア難民で、イスラエルに引き取られてと、日本人からは遠い国の、特殊な環境の話。

だが、そう片付けてしまえない。

帰国子女が抱える問題。
日本に暮らす、多国籍・多文化圏の子どもたちが直面する問題。
異文化適応を強いられる子どもたち。

アイデンティティを模索するモラトリアム人間が、バックパッカーとして、異文化をさまようのとは違う。模索してはいるが、バックパッカーは、自分の意志で旅立つのだ。
 会社から命じられて、異文化の地に赴任するのとも違う。彼らは帰る場所がはっきりしている。やるべきこともはっきりしているし、何より、ある一定の人格ができた大人だ。
 それでも、それだからこそ、柔軟性がなく、異文化不適応となる人々はいるが。

そうではなくて、アイデンティティを作り上げていく土台の時期に、自分の意志とは関係なく、異文化適応を強いられる子どもたち。

学校・地域では日本語を話し、家では他言語を話す子どもたち。
 徐々に日本語の方が達者になって、親とのコミュニケーションに難をきたす。人生・生活を支えるような言葉の習得は体験に基づく。林檎という言葉を習っても、🍎を食べたことがなければ、そのおいしさ・食感は習得できない。思春期になれば、お互い日本語を話していたって、コミュニケーションは難しくなる。そしてジェネレーションギャップ。それに、言語的・文化的な難しさが加われば…。
 反対に、日本文化にとっては当たり前すぎる風習を理解できなくて、周りの友達とコミュニケーションギャップを抱える子どもたち。ついていこうと無理すればストレスが大きくなり、ついていくのをあきらめれば孤立感が増し、不適応となる。

学校・地域では日本文化に適応するように求められ、家や親族間ではその方々の文化に適応するように求められる子どもたち。
 「ごめんなさい」から始まる人付き合いの日本。謝罪は責を認めるときだけと、けっして簡単には謝罪はしない文化。こじれる友達関係・保護者間。
 戒律や風習等によって参加できぬ授業・学校行事。友達と同じことができない、やりたいと言って泣く子ども。テレビ番組・ゲーム等余暇活動に制限がかかって、浮く子ども。人生・生活を支える言葉の習得は体験に基づくのに。小中高の時はそりが合わなくとも、同窓会で共有できる思い出のあるなし。
 「同じ釜の飯を食う」ことが仲間になる前提。共通の経験をすることが、…その中で喧嘩しようが、孤立感を一定期間味わおうが…、人付き合いを学ぶということ。欧米の精神発達でも、小学校時代のギャングエイジやチャムの関係を重要視するのに…。

親の都合で、祖国と日本を連れまわされる子ども。
 初めから、海外進出を見据えて、インターナショナルスクール等で学ぶ子どもは、まだその生育環境が一貫しているので適応しやすいのかもしれない。
 だが、日本でうまくいかなければ祖国に帰り、祖国で困窮すれば日本に来る生活。
 経済的なものだけを求めてとか、学業の安定だけを求めて、二重生活を送る子どもたち。
 彼らは、どこにアイデンティティを置けばよいのだろう?
 映画『僕の帰る場所』の主人公も抱えた悩み。

そして、自分を支えてくれる人・大切に思う人に言えぬ秘密を抱える子どもたち。
 例えば、性自認の課題を抱える人とか。
 主人公が周りの人々同化できない想い、異質感も似ているように思う。

なんらかの理由で、親戚や、養子縁組した子どもたち。
それが親の病死や離婚という、子に責がないことでも、なぜか自分が悪かったからと思う子どもたち。
この映画の主人公のように、大切にされればされるほど、苦しくなっていく。
幸福に満ち足りた善人と対峙する、彼らには見せられぬ闇を抱えた自分。その隔たり。
雨降って地固まるができればよいが、そうでなければ。

そんな思いを抱えている子どもたちに出会う度に、この映画の主人公を思い出す。
この映画の主人公は、それでも、周りの人に助けられて、自分なりの着点を見つけたのだが。
そんなサポートができる大人でありたいと思う。

とみいじょん