今宵、フィッツジェラルド劇場で : 映画評論・批評
2007年2月27日更新
2007年3月3日より銀座テアトルシネマ,Bunkamuraル・シネマにてロードショー
ロバート・アルトマンは最後まで役者をそそのかした
なるほど、「今宵、フィッツジェラルド劇場で」には、死や終末の匂いが強く立ち込めている。公開番組は最終回を迎えた。劇場は間もなく取り壊される。白いコートを着た死の天使も現れる。老歌手は楽屋で静かに息を引き取る。歌手たちは声を合わせて「急いで別れを告げないで」と歌う。そしてなによりも、これはロバート・アルトマンの遺作だ。
が、だからといって「挽歌」の趣きばかりを見いだそうとするのはつまらない。「今宵」には、穏やかな皮肉や骨太の笑いもずいぶん仕込まれている。フェリーニ映画に通じる祝祭的な空気も漂っている。それを可能にしたのは、役者の力だ。急いで付け加えると、「アルトマンにそそのかされた」役者の力だ。
たとえば、メリル・ストリープとリリー・トムリンの扮する姉妹の姿を思い出してみよう。通常、ストリープは白黒のはっきりしすぎた芝居をする。うるさいほどに露骨な感情表現をする。ところが、この映画の彼女は、鈍さを線の太さに変える。うるささを頼もしさに変える。感情の表出は歌に託し、受けにまわったトムリンとぶっきらぼうなやりとりを交わす。トムリンは、持ち前のタイミング感覚で短いカウンターを打ち返す。すると、空気が変わる。「祝祭と挽歌」のユニットがひと組誕生する。ユニットは、ほかの場所でも生まれる。アルトマンは、役者を信頼しつつ、複数のユニットを楽しげに組み合わせていく。だからこそ「今宵」は味わい深い。「おもしろうてやがて悲しき」映画というよりも、「せつないが楽しく」、どこか未来を感じさせる映画になっている。
(芝山幹郎)