ゲド戦記のレビュー・感想・評価
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「ハウルの動く城」より好き
原作を読んでいないのはもちろん、映画を見るまでストーリーは全く知りませんでした。
ネット上では、あまり評判がよくないようだったので心配していたのですが、それほど悪くは思いませんでした。少なくとも私は「ハウルの動く城」より好き。
原作の長いお話の一部分を映画にしたとかで、前後関係がよくわからないことがありましたが、まあそんなもんだろうと思えば気にならない程度でした。
キャラクターの絵が、宮崎駿そっくりな場合もあれば、ちょっと違う場合もあり、動きもちょっと物足りなく感じることがありました。宮崎駿っぽさを感じるだけに、どうしても比較してしまうんですが、宮崎駿よりはちょっと質が落ちるように見えました。
宮崎駿が監督をやったとしても、原画の一つ一つを全部監督が描くわけじゃないと思いますが、あの差は何なんでしょうね。
新人監督には荷が重すぎた
自ブログより抜粋で。
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原作を知らないので、よくわからんかったってのが正直なところ。
ただ、やはり新人監督にはこの世界観は荷が重すぎた。説明台詞でなんとかしようとしているが、断片的な約束事を提示するのでいっぱいいっぱいな印象で、壮大な世界観はまるで伝わってこない。
そんな状態では個々の登場人物に目が行き届くはずもなく、どれかのキャラが動いている裏では別のキャラは静止画状態だし、悩んでいるように見えて心情もほとんど理解できない。
クライマックスに入っての急展開はもう原作を知らない人間にはついていけない。
無常観というメッセージ性に共感しました。
原作を読んでませんが、主人公アレンの心の成長を際立たせたストーリーであったと思います。それは、宮崎駿の長男、宮崎吾朗監督がこれまで味わってきた重圧。絵が好きで本当は、父の世界を継ぎたいと思っているのに、余りにビッグネーム過ぎて、心ならずとも別な業界で身をやつしてきた屈折した思いも感じられました。
その分ゲド戦記には、宮崎吾朗監督の強いメッセージが感じられます。
父の国王という重圧から、父殺しという手段で逃避したアレンは、思い多重人格で苦しんでいました。限りない闇としての自分が肉体を支配し、肉体から追い出され、魂としてしか存在できなくなった光としての自分。
ふたりの自分に苦悩するアレンに、孤児テルーと劇中歌テルーの唄が絡むことで、「本当の自分とは何者か」という自己探求の強いメッセージを感じました。
いま若い世代の間で、自殺や、ひきこもり、登校拒否、リストカットなど深刻なことが起こっています。親族殺人など重大犯罪を引き起こす子供も目立ってきました。
いかに生きていくべきか?と迷ったあげく、様々に子供たちに心の闇が拡がっています。
これは戦後の教育や家庭のなかで、なぜ人は生まれてきたのか?という大事なことを教えなかったことがことが災いしていると思います。
この作品については、これまでのジブリファンから相当バッシングを受けています。けれども多感期の子供たちと、この映画とテルーの唄の歌詞を通じて「対話」が生まれればと願います。
ところで、宮崎吾朗監督って、こんな優しくて、素敵な詩を書く方だったんですね。
心を 何に たとえよう 鷹のようなこの心
心を 何に たとえよう 空を舞うよな悲しさを
心を 何に たとえよう 花のようなこの心
心を 何に たとえよう 雨に打たれる切なさを
心を 何に たとえよう 一人道行くこの心
心を 何に たとえよう 一人ぼっちの寂しさを
(テルーの唄/一部のみ抜粋)
今回の評価では、圧倒的に宮崎駿監督の方がよかったという意見が圧倒的ですが、こころの世界から見たら逆転します。
宮崎駿監督の世界観は、アミニズム(自然崇拝)です。だから自然を壊す文明を憎み、これに対する「祟り」を様々に描いてきました。その表現において、血が飛び交う凄惨なシーンもあり、あまり子供に見せられない面もあったはずです。
それに対する宮崎吾朗監督の世界観は、完全に仏教です。
一部文明に対する「祟り」も残ってはいますが、アレンの心の軌跡は、釈迦国の王子ゴーダマ・シッタルダが、出家成道にいたる過程に酷似しています。(ただ父王殺しは、ゴーダマ王子でなく、マダカ国 のアジャセ王子の話になりますが)
王子ゴーダマは、国内のあちこちを歩き、人々が老いる苦しみや病の苦しみして死の恐怖に恐れおののく姿に、心を痛めます。そして苦しみを超える道は、この世の治世にはできないと、家出し真理の探究者となったのです。
アレン王子も同じく家出し、心の中のふたりの自分の相克を通じて、自分探しの探求者となっていたのでしょう。
恐らく宮崎吾朗監督の過去世で、お釈迦さまの時代の印象が残っていて、それが今世のご自身の立場とオーバーラップして、このようなストーリーを生んだものと思います。
また、作品のキャッチコピーとなっている「死があってこその生がある」というのも、これもスバリ輪廻転生を語ったものです。宮崎吾朗監督はこの作品で、仏教の「生と死」という無常観を説きたかったのでしょう。そして永遠の生き続けるということの愚かさ。死という無常があるから生という希望があることを言いたかったのだと思います。
宮崎駿監督の祟りという、現代人を裁く気持ちに対して、宮崎吾朗監督の無常観は、悩める現代人に救いの手と希望を差し出そうとしています。そういう点で、宮崎吾朗監督の精神性のほうが高いと思います。
何を伝えようとしているのか分からないという方もおりますが、無常観というメッセージ性は、宗教的ベースがない人にとって、いまいち分かりにくのでしょうね。
このへんは次回作以降、手塚治虫の「火の鳥」みたいに、もっと明確に仏教観がつよく作品に打ち出していくものと思いますので、見守りたいと思います。
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