劇場公開日 2006年7月29日

「父とは異なるスタンスの映画を撮る!」ゲド戦記 CBさんの映画レビュー(感想・評価)

3.0父とは異なるスタンスの映画を撮る!

2020年7月12日
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鑑賞方法:映画館

「指輪物語」「ナルニア国物語」と並ぶ世界三大ファンタジー小説と評せられる。その第3巻「さいはての島へ」を原作とした本作。

立派な王様である父親を刺し殺してしまったアレンが、大賢人ゲドといっしょに、世界から魔法やまじないの力が消え去りつつある原因を探る旅をしてクモという魔法使いと対決する話。

以下は、映画を観た俺が勝手に想像した、宮崎吾郎監督(息子)から宮崎駿監督(父親)へのつぶやき。
「父さんは、"ひとり" 対 "世界" というか、"ナウシカが、アシタカが、世界をよくしよう、変えていこうとする映画" を撮るよね。そうした映画は、既に青春時代を終えた大人にはウケるかもしれない。でも、実際の若者が悩むのは、自分の中にある闇の面と光の面のギャップ、二重性ではないのかな。『一体、どっちが自分の本当の姿なんだ!』と悩むことが多いのではないだろうか。その悩みの前では、大賢人ですら無力だ、というのが真実ではなかろうか。だから、俺はそういう映画を撮る!」

吾郎監督が、原作に、宮崎親子が共にファンだというこの小説のこの巻を用いたのは、上記のような思いからだったんじゃないかなあ、と観ながら思った。

怖いのはみな同じだ。なのにあなたは、死を恐れて、生を失っている。あなたはひとつしかない命を生きるのが怖いのだ。生きて命を引き継げ。そうやって命はずっと続いていくのだから。

上記は、劇中クライマックスで、少女テルーが主人公アレンに話しかけるセリフだ。いいセリフだ。おそらく、小説ならば、読んで心にじんと染み入るだろう。
しかし、映画の中で登場人物にそのまま語らせると、なんか説教みたいなセリフと感じてしまう。このあたりが、原作と映画の難しい所なんじゃないかな。

必ずしも、登場人物にそのまましゃべらせるのがよいとは思わない。どうすりゃいいのかはわからないけれど、理想なら言える。そのままセリフで自分の耳に入ってくるのではなく、映像や、もっと短い別のセリフの積み重ねで語られて、上記したセリフのような内容を、なんだか自分で気づいた感じになったとき、猛烈に感動してる気がする。

もしも、本作が、上記のセリフを丸ごと言うのではなく進み、それでいて、観終わったときに俺が、「ああ、俺は、死を怖がっていたんじゃなかったんだ。ひとつしかない命を生きることを怖がっていたんだな。生きるって、そうじゃないんだ。生き切って、引き継いでいくものなんだなあ・・・」 なんてことを、感じることができたら、それこそ最高の感動で映画館を出るだろう。そして、駿監督の映画は、それに近いことをやっているんじゃなかろうか?

本作は、現段階ではまだ、"読むべきもの" になっていて、"観るべきもの" にはたどりついていないように感じた。絵本になったけれど、アニメにはなっていないと言うか… 贅沢を言うな、という話なのだが、ジブリだと、そんなところまで期待しちゃうな、ということです。

ほんの少しの差だと思うが、吾郎監督にはまだまだ頑張ってほしい。こっちが考えたみたいに勘違いする映画を撮れるまで。

なお、終始一貫して、淡々と語る主人公は、感情移入できるキャラクターでは、ない。だが、今回の話が、影の話であって、本人というか光の部分は、霊魂のみとなって後から追いかけてきている、という設定である以上はしょうがないのだと思う。ただ、感情移入できるキャラクターがいないと、寂しいことは確かだった。

追伸
ジブリ映画の登場人物人たちは、みんなスプーンの持ち方が変。めっちゃグー握りするよね。

2020/7/13 追記
よく考えたら、宮崎駿監督も、「千と千尋の神隠し」で、子どもの自立の話を撮ってるな。

CB
CBさんのコメント
2021年4月12日

駿監督の効果というか、ジブリ映画には、事前期待が極めて大きいですからね。吾郎監督は、悶々と悩む姿を描きたかったのかもしれませんが、もう一つ理解されなかったということでしょうか…

CB