父親たちの星条旗のレビュー・感想・評価
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英雄を作るのは私たち…
改憲論者は、硫黄島での彼らの経験をする覚悟はあるのか。
英雄ープロパガンダ・資金集めのために演出され、作り上げられるもの。
そんなスローガン・偶像を必要とする人々。アイドル。他者と同一感を得られる存在。熱狂的な高揚感。
やがては脱価値され、忘れられる存在。そんな運命に翻弄される男たち。
トラウマの残酷さを際立たせている。
しかも、周りは無邪気にフラッシュバックを誘発する状況を作り出す。
戦場での役割の違い。生き残ってしまったことへの意味付け。支えてくれる人の存在。
自分がやってきたことが全否定されたら、自分から新しいものを見つけて「過去は過ち」というのならいいけど、自分を支える何かがないのに経験を否定されることは魂の殺人だ。だから、「戦争が悪」とかのベクトルだけで語ることはできなくなる。
それ以外にもこの戦争に直接関わった人々の悲劇がさりげなくまんべんなくちりばめられている。
今トラウマを抱えている人々が経験している物語。
かっての戦争の話であると同時に、今の私達の物語だと思った。
プロパガンダ
硫黄島の激戦は日本軍の地下壕を巧みに張り巡らせた捨て身のゲリラ戦により海兵隊史上最悪の戦傷者を出した。制圧の証の星条旗を掲げた兵の戦場写真(AP通信)が新聞紙面を飾ると国内の士気が高まったことから政府は当該兵士を召喚し軍費調達の為の広告塔に利用することにする。実際には何度か星条旗は深夜日本兵により日の丸に替えられ、その都度揚げなおされたようだ。
当事者にしてみれば壮絶な戦いで多くの戦友を目前で失った記憶や真の掲揚者ではないにもかかわらず本国に召喚され英雄と持ち上げられるギャップに心中穏やかでないのは察しられる。
なにか「プライベート・ライアン」に通じる戦争の恣意的な側面を垣間見たような実話に基づく映画であった。
アメリカという国
戦地の悲惨さと、アメリカ本土の空気がよく伝わってきた。
利用される兵士達
インディアンへの差別意識
戦後PTSDとフラッシュバック
メディアの使われ方
ナショナリズム
戦争そのものよりも、戦時のアメリカという国そのものを描こうとしたと感じた。
戦争の実像と虚像のはざま
本作は2006年公開だから、硫黄島の戦いから60年以上経過し、この戦いに参加した兵士は当時20歳とするなら80歳を超え始めたということ
彼らが死んでしまえばその戦いの記憶は、写真などしか残らない
つまり虚像だけが残されるのだ
それが何を意味するのかを本作は訴えている
アメリカは第二次世界大戦から、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガン戦争、イラン戦争、そして現在は対テロ戦争を戦っている
ベトナム戦争はメディアがより戦場に入って実像を伝え、戦後には地獄の黙示録を初め多くの映画がその実像に迫った
では、それ以降の戦争の実像に映画は迫っているのか、実像を伝えているのか?を本作は問うている
現代の戦争は無人機が米国本土の基地にいながらにして衛星通信の遠隔操縦、はてはAIで敵を攻撃している
そこに戦争の実像と虚像のギャップはあるのか?
さらに大きくなっているのではないのだろうか?
このような問題を本作を観た若い者にクリントイーストウッド監督は君達の仕事だと問うているのだ
だからこそ、戦場のシーンは実際と見がまう程の迫真の出来映えだ
砲弾の炸裂音は実戦を経験した兵士は打ち上げ花火にとても似ているとよくいう
それを上手く映画に取り入れて効果を上げている
字幕でニューヨークでの式典のシーンでUnited Nationを国連とでるのはいただけない
これは当然「連合国」の間違い
このような大作の字幕で恥ずかしすぎるミスだ
日本語字幕製作陣は猛省してほしい
想像を絶するような戦いだったんですね、硫黄島。教科書等で習いはしま...
想像を絶するような戦いだったんですね、硫黄島。教科書等で習いはしましたが、この映画見た方がよく分かるかもしれない。必死だったんですね、アメリカも日本も。グロい描写がそこそこあるので苦手な方は要注意。
物語は戦争そのもの以外で翻弄される兵士たちを描く。実話に基づいているようだ。こんな悲惨なこともあるんだ、戦争ってやつは…
この作品、個人的に馴染みの俳優がおらず、正直誰もが薄い印象。序盤は誰が誰か分からず、ようやく分かりかけた時には、もうストーリーが相当進展してしまってた感じ。一番分かりやすい先住民は差別受けまくり。ここにもアメリカの闇が垣間見える。
いろいろと考えさせられる見て損のない作品。さすがはイーストウッドってとこか。
銃後と前線の間で
どこから来るともしれない銃弾や白兵戦を挑んでくる敵兵によってあっけなく惨たらしい死が訪れる戦場と、 日常が繰り返される米国本土との間で映画は揺れ動く。そのどちらも3人の兵士には過酷だった。戦時国債を売る広告塔として強いられる虚偽に精神がむしばまれていく姿は、特にアイラの描写で胸が痛む。アルコールへの耽溺、容赦なく浴びせられる差別的言辞などは目をそむけたくなるほどだった。
その後の3人の結末はそれぞれであるが、ひたすら物悲しい。浜辺のシーンはせめてもの救いのように見えるが、その後に続く写真は現実とのつながりを再確認するもので、心に重いものを残す。
戦時国債の話で意外だったのは、物量豊富な米国はその引き換えに
財政がひっ迫していたということ。第二次大戦時に財政赤字は対GDPで30%にも達していた。なんとなく財政的にも余裕があったというような印象があったが実際はそうではなく、本作品の物語の背景をなしている。
なお、二回目の写真に写っていたのは”ドク”ではなく別の兵士であったと2016年には公式に訂正されている。そのことを踏まえるとより”ドク”の心中がより慮られるのである。
イーストウッド監督の戦争映画・・
この作品は、アカデミー賞を受賞したイーストウッド監督による戦争映画の名作。二部作である。アメリカ側の立場から本作品。日本側の立場から「硫黄島からの手紙」がある。まるでノルマンディ上陸作戦を思わせる硫黄島への上陸作戦。水陸両用車から次々とアメリカ兵士が上陸して、トーチカで待ち伏せする日本兵と激しい戦闘をする。余りにも過酷な戦闘シーン・・太平洋戦争がいかに残虐であったか!?そして硫黄島の摺鉢山に征服の証のアメリカ星条旗を兵士たちが立てる。ネタバレになるので後は・・戦後60年のアメリカ映画。明るい作品ではないが、2006年の戦争について深く考えさせられる作品。週刊文春「シネマチャート」洋画87位。
アメリカと日本とで、戦争に対する姿勢は大きく違う
日本人とアメリカ人では全く戦争に対する捉え方が違う。優勢、劣勢もあるとは思うがアメリカでは戦争はビジネスとしての意味合いが強いのだと思う。
硫黄島での星条旗を掲げた有名な写真が実はあの旗は2本目であるとか、戦いが終結してからたてたものではないとか、本当はこの人は写真に写ってないとかどうでも良いことの方に戦死者のことよりも関心がいってしまうアメリカ人の感性に疑問を感じた。いくら身内が死のうと、これまでの幾多の戦争でどれだけ犠牲になった兵がいようと、アメリカンスナイパーで取り上げられたように戦争が終わって帰国後にPDSDに悩まされ自殺する人がたくさんいる現実があっても戦争を支持し続けるアメリカはなんて非情な国なんだろう。
戦争は優勢な立場にいて勝つことができれば経済的に凄く良い。アメリカは戦争をしたら自分達が優勢にたてるという確信から戦争に介入し続けてきている。
無実の同国の人間を殺したら、犯罪者。無実の敵国の人を殺したら、英雄。アメリカ人がその矛盾に気づく日は来るのだろうか。
「硫黄島からの手紙」と「父親たちの星条旗」の両作品を観て戦争を肯定することができなくなった。
「父親たちの星条旗」を観て・・
クリント・イーストウッドの監督による戦争映画。硫黄島の戦いをアメリカ側の立場から作品にしたもの。日本側の立場からは渡辺謙が主演した「硫黄島からの手紙」がある。
太平洋戦争末期に水陸両用車からアメリカ軍の兵士が硫黄島に上陸し、洞穴から死守する日本軍と戦闘する。その戦闘シーンは凄まじい・・結局、アメリカ軍が占領して硫黄島の摺鉢山の頂上に星条旗を立てた。アメリカ合衆国では戦時国債の販売キャンペーンを星条旗を立てた兵士を国民的英雄にして行った。その為の銅像も出来て、国債ツアーを各地でする。だが、その兵士らのその後の人生は・・戦争の悲惨さを物語にしている。
2006年公開のアメリカ戦争映画の名作。
『硫黄島からの手紙』のほうがわかりやすくて良かった
総合:70点 ( ストーリー:65点|キャスト:70点|演出:75点|ビジュアル:80点|音楽:65点 )
思いっきり戦争の話かと思いきや、突然本国で国家の宣伝に利用される兵士の話になってしまう。この茶番劇が薄っぺらで、いやそれは映画のことではなくて国家が演じる茶番劇が薄っぺらで、観ていてくだらないと思って途中で退屈もあった。作品の質が低いわけではないけれど、戦争そのものを正面から描いた『硫黄島からの手紙』のほうがわかりやすいが、こちらは主題が地味で観ていて楽しくない。戦闘場面の描写がなかなかの迫力だったので、その対比としての茶番劇が余計につまらない。
でもそのうちそのような場面を乗り越えて、戦争だけでなく国家に利用されて人生を翻弄された兵士の心の傷が分り始めた。激戦で有名な硫黄島占領作戦は、あの場所に兵士達が星条旗を立てたから勝利を掴んだのではなく、全員が総力戦で戦った勝利の結果として星条旗を立てたのである。日本軍を制圧し、たまたまそこにいた兵士が旗を立てた。現場の兵士からすれば、その部分だけを取り上げられてもそれは真実からは程遠い。戦争の現場で戦う自分と、国民の戦意高揚と国債販売のために都合よく英雄扱いされる自分との差に、苛立ち苦悩する兵士の葛藤する姿と虚しさに余韻が残る。
戦争は古より政治家が始め、若者が死ぬ。 生き残った若者ですら、政治...
戦争は古より政治家が始め、若者が死ぬ。
生き残った若者ですら、政治が社会的に殺す。
プロパガンダで国威発揚を図るのが常のアメリカ。
そこじゃなくない?
戦争アクションとしては中々見応えがある。が、それだけ。
真面目な戦争映画としてはズレていると感じた。
この映画は、硫黄島の戦いにおいて、たまたまアメリカ国旗を掲げたに過ぎない者が、
本国で英雄視され、政治宣伝に利用されたことによる葛藤を描いている。
彼らの葛藤の根本は
「自分は英雄ではなく、真の英雄は他にいるのに…(世間はそこをわかってくれない)」
ということであるらしく、映画の描写の大半はそこに割かれる。
しかし、その葛藤自体、見誤ってはいないか。
なぜなら、世間は、彼らに特別な能力や功績がないことは知っているのだから。
つまり世間も、彼らが真の英雄ではないことはわかったうえで、
彼らを戦争のシンボルとして祭り上げたにすぎない。
彼らに、兵役で死んだ自分の息子やらを重ねただけである。
にもかかわらず、「大衆には偽者と真の英雄の違いもわからない」
ことを前提にプロパガンダを描くのは、大衆を馬鹿にしている。
そして、そもそもこの葛藤自体が幼稚ではなかろうか。
個人の能力とは関係ないところで脚光を浴びることは、長い人生の中では割とあること。
重要なのは、そこで実力のなさや、本来脚光を浴びるべき他人を慮って苦悩することではなく、
そういうものと割り切ったうえで、自分やその他人のためにどう行動するか、だろう。
この映画は、彼らを政治に振り回された被害者であるかのように描いているが、
個人的には、彼らは折角の機会を生かせずに勝手に自滅しただけで、自業自得だと感じた。
「利用されたこと」で彼らが失うものはなかったし、利用自体の強制力もそこまでなかったのだから、
一種の偶像として祭り上げられていることは自覚して開き直ったうえで、
いまのうちだけと思って、戦友のために活動するなり、権力者のオファーに乗るべきだった。
この映画の描き方では、そういう感想をもたざるを得ない。
"星条旗の下に結集せよ"
‘星条旗の下に結集せよ’
移民の国、人種の坩堝のアメリカでは全員が結集して「自分はアメリカ人ある」事を強く意識し、確認する“モノ”が重宝される。
一番解りやすいのは視覚・聴覚で訴えてくるモノで、音楽なら。
お馴染みの国歌「Star Spangled Banner」を始め、
「God Bless America」
「America The Beautiful」
「National Emblem March」
「Strike Up The Band」
「Stars And Stripes」
それにジョージ・M・コーハンの数多くのヒット曲等々。
これらの曲を聴く度に思い出すある有名な一枚の写真。視覚で訴えるのにこれ以上に効果的な‘モノ’は無い。
クリント・イーストウッドは“国家に振り回された”男達に哀惜の念を寄せながら“国家に利用された”事実を静かに訴える。
徹底的にリアルにこだわった戦闘場面を始めとして、あの戦争の不条理さを明らかにした上で如何にして“英雄”は作り上げられていくのか…。
アメリカの恥部を暴いているだけにアカデミー賞を始めとする賞レースからは冷遇されるであろうと思われるが、※1 ‘国家の為では無く、友と共に生き抜こう’とした若者たちのドラマを、イーストウッドは自分で音楽も作り彼らの魂の浄化をしょうとしている様に思え、実に感動的でした。
※1 結果はご存知の通り
(2006年11月20日丸の内プラゼール)
戦争ビジネス
戦争は国のビジネス。
兵士達は戦地では、命をかけて敵と戦わなければならない。
国に帰ってきても、戦争からは解放されず、いいように使われるだけ。
戦地の音や映像が脳裏から離れないようすは、まさに戦争で殺されたも同然。戦地に行くまでの健康な人間には戻れないのかとも思う。
正義のエゴイズム
映画評価:30点
日本の硫黄島は、兵士達がどんだけ苦しい状況で闘い、家に残してきた家族を思い、敵わないとしるアメリカに挑むシーンがメインだったのに対して
このアメリカ視点の硫黄島は政治なのだ。
勝利をおさめるのは当然だとして、いかに勝利した兵士をヒーローにしたて国債を買わせるか、経済効果を大きくできるか。
そんな感じだ。
これを見ていると日本が無謀な戦争をしていたのが痛いほど分かる。
戦争とは勝とうが負けようが痛みが伴うもので、悲しい出来事だ。
政治の一環でやる事ではないと感じた。
50年も戦争をしていない日本は偉い
私はそう思う。
【2014.12.7鑑賞】
硫黄島(アメリカ側の視点)
巨匠クリント・イーストウッド監督による、硫黄島の戦い”第1作”
太平洋戦争末期の大戦争、硫黄島の戦いについて、
1作目が、父親たちの星条旗。
2作目が、硫黄島からの手紙。
硫黄島からの手紙を観た後、本映画、父親たちの星条旗を観た。
同じ戦争を日本、アメリカの全く異なる視点で描くといったスタンスが良い。
硫黄島からの手紙では、戦力で圧倒的に上回るアメリカ軍に太刀打ちするため、
擂鉢山を始め、地下壕を拠点とした戦略などを描いている。
一方、父親たちの星条旗では、砂浜から上陸を開始するも、
日本軍による銃撃が一向になく不気味な雰囲気を漂よわせる。
そして、想定以上に戦争が長期化し、財力が減少していくアメリカ。
そこで政府に利用されるのが、本映画に登場する兵士たち。
擂鉢山頂上での、国旗の星条旗を掲げる瞬間を捉えた写真を基に、
そこに映る兵士をヒーローに見立て、国債の購入をPRしまわる。
誰も自分が硫黄島の戦いでのヒーローとなどは思っておらず、
にもかかわらず、世間からは過剰な賞賛を得るため、
彼らの心に生じる矛盾には大いに納得させられた。
戦争の意味を考える
「日本が負けた」映画を観るってのもなんだかなぁと思って、最初は観る気はあんまり無かったんですが、ついつい観に行ってしまいました。
この映画はドンパチアクションとかを期待したら肩すかしを食うと思います。昨今の映画にある人体崩壊もさほど無いし。
でも、見終わった後には戦闘の描写そのものには、さほど意味がないって思いました。
この映画を観て、改めて戦争の意味って何だろうと考えさせられました。
政治的な大義名分は何となく分かるし、戦略的・戦術的な勝利のために戦うってのも分かります。
でも、実際に銃を持って戦う兵士たちは、立派な指揮を執っていようが、敵を何人殺そうが、敵に殺されようが、味方に殺されようが結局、それは一個人の人生として完結してしまう。
その一方で、“たまたま旗を立てた”だけで英雄視されてしまう兵士もいる。
そして、その英雄でさえ戦争が終われば用無しとなって、クズのように捨てられてしまう……大義名分の前には、兵士個人のパーソナリティなんてのは消し飛んでしまう。
だとしたら、いったい何のための戦争……戦っている兵士にとって、何のための戦争だったんだろうか考えさせられました。
それは生き残ったオレたち(硫黄島で戦ったのは、紛れもなくオレたち日本人の先輩たちなわけである)にとっても、何のための戦争だったんだろうかという問題を投げかけているかも知れないし、そうじゃないかも知れない……まあ、それは受け取り手の判断ってことで……。
で、その“何のための戦争だったのか”の一つの考え方を示してくれるのが、これに続いて上映される『硫黄島からの手紙』なんじゃないかな、とオレ的には期待していたりします。
というわけで、『硫黄島からの手紙』も観に行かなきゃならんな~。
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