羅生門のレビュー・感想・評価
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いろんな点で想像していたのと違ってた
京都文化博物館で開催されていた‟公開70周年記念 映画『羅生門』展”で初鑑賞。
想像していたものといろんな点で違っていて驚き&新鮮でした。
①役者が現代風でかっこよし。
世界に通用する役者陣。
・多襄丸役の「三船敏郎」
→ 彫が深い男前。手足も長い。
・武士役の「森雅之」
→ 口髭がダンディ。南米のラッパーにいそう。
②小説と違うシナリオ。
「いつ老婆がでてくるのか?」
「いつ羅生門の上に梯子であがるのか?」
期待していたが最後までそんな場面はなし。
この映画は芥川龍之介の「羅生門」と「藪の中」
の2つの小説を組み合わせたものなんですね。
③秀逸な構成
同じシーンを登場人物各々の視点から描き、各々の「勝手な脚色」をあぶりだす。
また「勝手な脚色」はそれを回想している杣売り自身にもあてはまることだった。
さらに羅生門に捨てられていた赤ん坊に下人は「勝手な脚色」によるふるまいを。
最後のシーンはご都合主義による陳腐感があったので無いほうがよかったかも。
(まあ、あのシーンがないと気分がどんよりしたままで救いがないのも事実だけど。)
世界に知らしめた光と影の映像美、鬼気迫る名演
今から約70年前。世界にクロサワの名前を、日本映画の存在を知らしめた歴史的作品。日本映画として初めて第12回ベネチア国際映画祭でグランプリの金獅子賞を受賞し、第24回アカデミー賞名誉外国語映画賞を受賞しました。
原作は芥川龍之介の短編「藪の中」。時は平安時代の乱世、都にほど近い山中で侍夫婦が盗賊に襲われ、夫の侍が殺されます。やがて盗賊は捕われるが、盗賊と侍の妻、目撃者らの食い違う証言がそれぞれの視点から描かれます。見栄や虚栄のための嘘により、人間のエゴイズムがあぶり出され、黒澤明監督と橋本忍による脚本がこの世の真実とは何かを追求しています。
さらに、この映画の見所は物語構造とともに、その映像美と役者たちの演技。豪雨の中に浮き立つ荒廃した羅生門の造形美から始まり、盗賊、侍とその妻の森の中での立ち回りシーンの迫力、語り部となる杣売りと旅法師らの羅生門下でのやり取りなどすべてが印象深い。
夏の森の中の光と影のコントラストの中で、盗賊を演じた三船敏郎の力強くも滑稽な野性味が繰り返される証言シーンを牽引し、侍の妻を演じた京マチ子が女性の内なる強さや妖艶さを見事に表現。木漏れ日の光に照らし出される表情が美しさを増し、モノクロの映画でありながら色彩を感じさせます。
また森雅之が演じる侍の高貴さが対比となり、美しい妻の前で追いやられた男の無念さ、自我を浮き立たせ、志村喬が演じる杣売りらをこの世の藪の中へと引きずり込んでいきます。そしてラストの解釈は、この映画を見た者のエゴイズムが問われることになるでしょう。
主演3人の笑いと表情の演技が良い
主演3人の笑いと表情の演技が良かった。
野獣のように高笑いする多襄丸(三船敏郎)、本性を現してブチ切れ笑う真砂(京マチ子)。真砂が泣いたフリから一瞬で素に戻るのも怖い。
金沢武弘(森雅之)は笑いはしないが、真砂を蔑む何とも言えない目が強烈。黒澤監督がどんな演技指導したか気になる。
自分の弱さに開き直るか向き合うか
白黒のコントラストの強い画面。舞台設定も白の強い回想シーンと、暗い雨の羅生門とで対照的。そんな中で、汗の一粒一粒まで3Dの様な立体感を感じさせる三船敏郎の肉体の存在感が際立つ。汗にまみれても不思議と湿度は感じず、逆に乾いて見える。
印象的なのは森雅之と京マチ子。不自由のない幸せそうな夫婦からの変わり様は本当に恐ろしい。人の本性が露わになった形相、特にじっとりと見詰める森雅之の白目がちな目が頭からなかなか離れてくれない。
最後、志村喬演じる男が 僧から赤子を受け取ろうとする時の表情が何とも言えない。短刀を盗み、それを知らぬと嘘をついてしまった事を明らかにされながら、それでも苦しい生活の中で赤子を引き取って育てようと決意する男の善性がよくにじみ出ている。そして晴れ上がった空の下、羅生門を後にする男の姿は神々しくすらある。
一方で、赤子から衣を剥ぎ取り開き直った男は、きっと今も雨に打たれながら歩き続けているように思えてならない。
…
鑑賞後、羅生門と藪の中を久しぶりに読み返した。そして、小説の羅生門に出てくる老婆は映画で赤子の衣を剥いだ男であり、老婆を蹴落とす下人が志村喬の演じた男になったんだと気付き、映画のタイトルに合点がいった。
いいですね~黒沢さんと志村さんと三船の黄金コンビ
今日も古いDVDを適当に選んで映画鑑賞♪
物事の善悪、善人と悪人、生きる上での悪行とは何か?
このご時世、改めて考えさせられた気持ちです。
人の心とは、空しくて悲しいかな?でもラストのシーンでこの世も
まだ捨てたものでは無いものだと考えさせられる!流石は黒沢監督です♪
虚偽・真実と天候との相関性
ネタバレ
土砂降りの中雨宿りのため半壊の「羅生門」に飛び込んできた通りすがり、その通りすがりにある事件のあらましを語り聞かせることになる貧しい木こり。
その事件の関与者はことごとく言い分が食い違い、いずれももっともらしく聞こえてくるので何が真相か全く判別がつかない。(うち一人は霊媒が語っているし・・・)
羅生門では話を聞いている通りすがりが火を起こすほど気温低下。
そして最後に貧しい木こりが目撃したことを話すが、それすら真実と言い難い怪しさが否めない。通りすがりは木こりをなじり雨の中門を飛び出していく。しかし、ひょんなことから門に捨てられた赤子を木こりが引き取ることを決意した後雨が上がり、太陽が差し込む。
これくらい分かりやすい相応描写もないであろう。
「木こりも赤子を後に売るか、奴隷として終生こき使うかなどの不純な動機で引き取った可能性がある」という考え方ももちろんできるが、上の天気との相関性を顧みるならその説は取りにくいというのが個人的考え。黒澤監督的にはどうだったかもはや知りようがないが
2003--
一つの事件を複数の視点から映像化するコロンブスの卵的手法
1 ヒューマニズムへの疑念
1)冒頭と末尾のシーンと内容の齟齬
本作は初めに旅法師と薪売りが互いに「わからない」「信じられない」と人間性への疑念を口にし、最後に薪売りが捨子を養うと言い出す点に救いを見出すという、いかにもヒューマニズムを打ち出した構成になっている。その後の黒澤映画にそのような作品が多いから、これもそうなのかと思いきや、見ていると全く違う作品だということがわかる。
作品内容は、ある強盗殺人事件の当事者3人がその事件の経過をそれぞれ証言するのだが、驚くべきことにその内容が3人ともまったく異なる。これはどうしたことだ、というもので、いわば人間性に対する疑念を呈するものなのである。
2)同一事件に対する3人3様の証言と真実
①強盗は侍の女房をレイプした後、女を自分のものにしたくなり、自分が侍と正々堂々と戦い、相手を圧倒した挙句、殺害したと見栄を張る。
②侍の女房は、強盗の去ったあと侍を助け出すが、強盗にレイプされた自分を彼が軽蔑の目つきで見下したことから、動揺のあまり彼を殺してしまった。弱い女の心のせいで、その後自分も何度も死のうとしたが死ねなかったと、弱さを装う。
③巫女の口を借りて現れた侍は、女房が強盗に自分を殺すよう依頼したこと、しかしそれに呆れた強盗は2人を置き去りにして立ち去り、女房も去ったことを語った後、侍は絶望のあまり自殺した=殺されたのではなく自ら世を捨てたというプライドを見せる。
ところが、事件のすべてを目撃していた薪売りによれば、レイプ後、強盗に自分と一緒になるよう頼まれた女房は、侍と戦って勝てば頼みを聞くと返事をする。
強盗は勇んで侍の縄を切るが、解放された侍は他の男に抱かれた女などのために戦う意志などない。それを知った強盗も女への熱が冷めてしまう。
それを見た女房は、男2人のだらしなさをあげつらい、さっさと戦うようけしかけるのである。女にプライドを傷つけられた2人は、それまでの証言とは正反対のへっぴり腰で切り合い、最後には事故のようにして強盗が勝つ。女は逃げるが、もはや強盗には追いかける気力さえない。
3)人間のエゴとヒューマニズムの怪しさ
強盗は剛腕自慢、女房は弱さを隠れ蓑にした責任逃れ、貴族は世を捨てる意志によって、それぞれ自分の真実を隠蔽する。すなわち強盗は女房に土下座して自分のものになってくれと頼んだ情けなさを、女房は男2人を戦うよう仕向けた罪深さを、貴族は凌辱された女房から逆に蔑まれた挙句、殺された無残さを隠すということだ。
古来から訴訟があるところ、嘘があったわけで、そんなウソを前提に社会は運営されてきた。そこから見れば、日本に流布されているヒューマニズム、人間の善意と真実を信じよという時代思潮にはかなり怪しいものがある。
冒頭と末尾の薪売りと旅法師のことさら感、ちぐはぐ感をたどると、黒澤が本作に込めたテーマがこのようなヒューマニズムへの疑念だったのではないかと思わざるを得ないのである。
2 映像技法とドラマ性について
1のテーマはさておき、「映画技法の百貨店」と評された黒澤の手腕はここでもいかんなく発揮され、森の中の木洩れ日に浮かび上がる京マチ子の美しさ、太陽に直接向けられたカメラの描く逆光の眩しさ、証言の際の勇ましい戦いぶりと最後のへっぴり腰の戦いの対照、それらが美しい白黒画像を通して伝わってくる。
また、ドラマ性という面では、玉ねぎを剝いても剥いても次の皮が現れ、最後の最後にどんでん返しで落とすという、凝った仕掛けが施されている。
1に挙げたテーマはもはや陳腐化してしまったが、こうした映像技法やドラマの面では、現在でも鑑賞に堪えると思う。
(補足)
その後、芥川龍之介の『藪の中』を確認したが、原作にあるのは上記2)の①~③まで。薪売りの証言は映画オリジナルで、原作①~③をごっちゃにしたうえで、3人3様それぞれの醜悪さ、みっともなさを描くことに力点が置かれている。
原作を読む限りでは、あまりに3人の話が食い違うので、事実の捉え方の相対性というには無理がある。むしろ、「起こりえた3つの筋書き」を提示することが作者の狙いだったというのが素直な見方だろう。
ところが映画は、無理やり人間のエゴによる事実の捻じ曲げという話にしてしまったから、小生もそれに即して解釈してみたが、やはり強引な感は否めない。その意味では、作品の完成度には疑問符がつかざるを得ない。
ただ、一つの事件を複数の視点から映像化するという手法は、黒澤のコロンブスの卵的な独創性として今後も残り続けるのではないか。
日本知性の宝庫
この作品のすばらしさは既に様々な指摘や研究がなされている。それ以上に、この原作が芥川龍之介と言う天才がおり、その彼が目を付けた今昔物語集と言う世界に類するもののない物語コンテンツの宝庫を歴史的に抱えて来た日本なればこその子の映画ではないだろうか。他の方が指摘している本来黒澤が主演に原節子を切望したことや雨に墨汁を入れたり、日光を初めてフイルムに取り入れたり・・もう撮影記録一つとっても宝庫の極み。今昔物語集は手塚の「どろろ」と言う裏の最高傑作も生みだしている事をここで付け加えておく必要がある。もちろん多くの研究が指摘している通り「どろろ」は室町時代の百鬼夜行絵巻がその原点である。しかしその背景には平家物語や御伽草子がありそのルーツは今昔物語集へと辿ることはできる。日本に眠る多くのコンテンツの宝物殿はこれからも数多くの傑作を生みだし続けるであろう。シン・エヴァンゲリオンと言う物語のように。
映画史上最高の泥仕合
羅生門の下で雨宿りをしている男が語る、ある殺人事件の話。美人の女を目撃し一目惚れした盗人がその女の旦那を殺害して逮捕されたが、盗人・女・旦那3人とも主張することが全く違うミステリー(?)。
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真実とは何か?そもそも真実なんてあるのか?がテーマの作品(『ゆれる』とか『三度目の殺人』とか)って現代の邦画で割とレベルが高いジャンルだと思ってるけど、その邦画の大元を見たという感じがした。
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男は自分のプライドを保つために嘘をつき、女は自分の純潔清純さを保つために嘘をつく。盗人が語る回想では、映画的に音楽もついててかっこよく見せた2人の男の対決が描かれるけど、目撃者の男が語る1番真実らしい回想では2人の対決は音楽もなく男ふたりがヘロヘロになって戦う泥沼さ。
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人間離れして強靭そうな盗人もひとたび死を目の前にすると怯えて必死になる。歴史上に起きてきた全ての戦いって映画みたいにかっこいいものじゃなくて、こういう感じだったんだろうな。
寝取り寝取られからの…
女の豹変ぶりが凄い。寝取った男、寝取られた夫、その妻。同じ出来事なんだが三者三様、己のエゴから言うことが違う。また、それを目撃した者も結局は嘘をついており、事実と違うことを語ってしまう。人間は自分が可愛いがために嘘をついてしまうことを表現してるのだろうが、今この現代において、人間は変わっていないとも感じるが、どこか当然の気もしてしまい、それだけ当たり前に感じてしまう自分が、残念。
真心
人間は身勝手で、弱くて、嘘をつき、己の為に平気で人を傷つける。
ただ人を思いやる真心だけが救い。だけど人間は弱いから、それがとてもとても難しい。
いくつもの鎧を着て疑い、弱い自分を隠し、自分を守る為に良心は捨てて自分勝手に振る舞う。
誰の中にもいる醜い人間の部分と真心が描かれていてすごく面白かったです。
宮川一夫の映像美に人間の醜さを暴いた黒澤映画の厳しさと願い
公開当時日本の評価は数ある秀作の中の一本の評価だったが、ヴェネチア国際映画祭でグランプリを受賞してから国内での評価が一変したという。アメリカでも2年連続アカデミー賞にノミネートされて、52年には名誉賞(外国語映画賞)を受賞し、53年の授賞式では淀川長治氏が出席して、その時の様子はハリウッド滞在記に詳しく書かれている。それまでの戦前戦後含めて日本映画が西洋の映画人から高く評価されることは殆どなく、日本映画の巨匠たちの代表作でも関心を寄せられることはなかった。海外に輸出して日本映画を宣伝すること自体想像できないことだった。その淀川氏のお話で最も印象深いのが、感銘を受け何度も通った俳優のリー・J・コップに日本映画のレベルを尋ねられて、この「羅生門」のような優れた映画はもっとありますよと自慢したことだった。このことだけでも当時の日本の映画人にとって誇らしい出来事だったのかが分かる。
旅の侍金沢武弘とその妻真砂、そして盗賊多襄丸が絡む殺人事件の法廷劇にして、三人三様の嘘を証言映像として展開する作劇の面白さ。そこにある自分勝手な人間の赤裸々な姿を暴く視点の鋭さ。熱い日差しと木漏れ日、汗ばむ肌、妖艶な真砂の美しさを表現する黒澤演出と宮川一夫の撮影の素晴らしさ。モノクロ映像のひとつの頂点に位置する映像美。更に、三人の嘘を証言出来ない木こりの盗みを暴く下人の開き直り。そして旅法師の人間不信から、捨て子を引き取る木こりの良心で閉める黒澤監督と橋本忍の練られた脚本の完成度。悪人になり切れぬ多襄丸を三船敏郎が見事に演じて、平安時代の美女を艶やかに演じる京マチ子の熱演と名優森雅之の見栄を張る男の卑しさの表現も素晴らしい。
聖書に誓いを立てて始まる法廷劇に慣れたキリスト教の西洋人は、嘘だけで終わる法廷劇の珍しさと正義の追求というより人間の業と性(さが)についての考察の深さ、そしてエキゾチックなコスチュームプレイに関心を持ったと思われる。日本において心理学が西洋と比べて進まない原因の一つに、日本人は本心を余り明かさないと聞いたことがある。本音と建て前を使い分ける日本人を客観的に捉えたこの黒澤映画は、まさに日本映画そのものであると言えるかも知れない。そんな人間の業を観察し仮面を剥ぎ、尚、人には救いがあって欲しいと願う黒澤監督のヒューマニズムが、国境を越えて広く評価されたのは当然のことではないだろうか。
ある視点
第12回ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞作。
第39回ヴェネツィア国際映画祭栄誉金獅子賞受賞作。
Blu-ray(デジタル完全版)で3回目の鑑賞。
原作(羅生門/藪の中)は既読です。
交錯するそれぞれの視点。
浮かび上がるのは真実なのか?
それともただのカオスなのか?
人間の表と裏を象徴するかのように光と影にこだわった画づくりが印象的で、優れたビジュアルセンスだと思いました。
徹底した生々しさもいい。ギラギラした陽光と滝のように流れ落ちる汗、こちらまで暑くなる泥臭さが堪りませんでした。
人間の本性とエゴが炙り出され、それぞれの都合によって書き換えられていく事件の様相と真相。同じ出来事でも見方が変われば三者三様の捉え方が可能で、それが真実を藪の中へと引き摺り込んでしまう。恐ろしいなと思いました。
「三度目の殺人」を初めて観た時も感じましたが、唯一無二の真実と云うものは端から存在せず、当事者や第三者それぞれの中に真実があると云うことかと…。関係者の数だけ真実がある。人間の心の奥深さが浮き彫りになっていきました。
醜いところもあって、美しいところもある。
だからこそ人間は素晴らしいのかもしれない。
[以降の鑑賞記録]
2020/03/28:NHK総合
※修正(2023/04/30)
人の心
字幕なしでは全く聞き取れず断念…。
字幕付きで恐る恐るリトライ。
何より芥川龍之介の原作が素晴らしいからなのだと思いますが、アレンジしたにしても流石の名作です。感動しました。
ある殺人事件に関わる3人の証言。
そして目撃者の証言。
全ての証言が食い違う事件を、善人の僧は理解出来ませんが、人間の本質を知る下人は見抜いています。
最後には僧ですら一瞬人間不信に陥らせてしまうこの物語。
僧「人間は弱いからこそ嘘もつく。己さえ偽る。」
下人「一体正しい人間なんているのかい?みんな自分でそう思ってるだけじゃねぇのか。人間っていうやつぁ自分に都合の悪いことは忘れちまって、都合のいい嘘を本当だと思ってやがんだ。その方が楽だからな。」
「人の気持ちを考えてたら切りがねぇ。手前勝手でねぇやつが生きていかれる世の中じゃねぇや。」
盗賊、疫病、飢饉、火事、戦より恐ろしいのは人の心。
サスペンスとして観ても面白いです。
【多襄丸】
*悪名高い盗賊としての見栄
●隠したいこと
真砂に惚れてプロポーズしたこと。夫に見放されるような女にプロポーズして格好悪くなったこと。実は大したことのない戦の腕前と武弘を殺すのが怖かったこと。そして決闘で勝っても真砂に逃げられたこと。
○正直に話していること
真砂の気性の激しさに惹かれたこと。真砂に武弘と戦うよう仕向けられたこと。武弘の殺害。
【真砂】
*辱められたが同情を買って世間体を保ちたい
*女の意地
●隠したいこと
激しい気性。男達に決闘をけしかけたこと。夫の死の原因を作ったこと。
○正直に話していること
夫に蔑まれて傷付いたこと。
巫女=武弘の前提で。
【武弘】
*夫としてのプライド
*男の見栄
●隠したいこと
妻を寝取られた悔しさ。決闘で負けて殺されたこと。
○正直に話していること
多襄丸が妻にプロポーズ。妻を軽蔑。妻の言動に傷付いたこと。刺さった刀を誰かが抜いたこと。
【杣売】
*正直な部外者でありたい
●隠したいこと
短刀を盗んだこと
○正直に話していること
多襄丸のプロポーズ。真砂による決闘の提案。多襄丸が武弘を殺害。
多襄丸が本当に短刀の行方を知らないのなら、武弘から太刀を抜いたのは多襄丸。実は多襄丸が短刀で殺していた、もしくは真砂が戻って来て、死んだ夫を(見て気絶したかは不明だが)改めて短刀で刺したのなら、抜いたのは杣売。不明点はここだけ?
誰も暴行と殺人(自死)については隠さない…(°_°)。
そもそも詐欺がいけないでしょう…。
死んだ人間まで嘘をつくのか??
死人に口なしどころか…。
本当、あの世に逝ってまで見栄は張りたくないかな…。
本作以降、登場人物の数名は「七人の侍」メンバーに!
異なる証言
ある殺人事件を巡って当事者3人の証言が三様に異なる。事件を客観的に見ていた人物が語る真相により、何故3人が異なった証言をする事になったのかが見えてくる。
プライド、意地、見栄、世間体、罪悪感、人間の持つ色々な感情を想像させられる。
そして、最後に客観的に見ていた人物ですら、事実を隠している事が明らかになる。
人は生きていく為、他の誰かの為にも嘘をつく事がある。人を信頼し信じる事は、嘘もひっくるめて信じられるかどうかなのかもしれない。
噓をつく人がいても、それでも正しく生きる。
黒澤明監督の映画である。盗賊が夫婦を襲って奥さんをおかして夫を殺してしまうという性暴力の話なのだが、その経緯が当時者3人によって証言が食い違い、何が本当なのかという事になる。捕まえられた裁判のような場で、まずは盗賊が証言する。次に奥さんが証言する。盗賊と奥さんの言い分が、夫の死に至る経緯がまるで違っている。次が現実的でないと言ってはおしまいだが、巫女の口をかりて死んだ夫が証言するのである。これもまた二人の証言と違っている。これで何が本当なのかとすると推理になってしまうのだが、私が最初みた限りでは、なぜか、巫女の口からではあるが夫が妻の事を悪者にしているのが不自然であった。とすれば、わざわざ妻を悪者にしてまでの話だから死んだ夫の証言(変だが)が事実だろうかとも思えてしまう。そこからなぜ妻と盗賊がそれぞれ違う証言だったかを推理したほうが良いだろうか。これは現代人としては巫女には失礼だが、そうすると変になるか。
盗賊と奥さんの話だけ比較すべきだろうか。だとすると。メモしていないのでわからなくなってしまった。私の記憶力がそもそも弱すぎた。ところが羅生門でそれを目撃したという男が、裁判のような場ではないからと別の雨宿りの男に語り始める。すると、死んだ夫が冷徹だったと言うことになる。
しかし奥さんの言葉でそれを改めていた。羅生門の男の話が一番女の情念を感じるだろうか。では妻の証言は何だったか。それに、羅生門の男お言い分が正しいなら、どうして奥さんは夫に背後から味方しなかったのか。夫が勝つものと信じたか。男なら闘って女を奪えと啖呵を切ってしまったからか。盗賊はかっこうをみせるためにそう語ったのか。やはりでは奥さんの証言の違いは。
その心理を考えるのがみそなのか。奥さんは盗賊のほうに味方していたような証言だったことになってしまうのか・・・。雨宿りは3人いたのだが、羅生門に残る2人の間の最後への会話が、噓がつける人間をどう信じるかという賭けを考えさせる。戦争後5年の間に作られ上映された映画だ。
戦争からの噓と、それでも人間は信じていかねば社会が成り立たないという意味もあったのだろうか。
食い違う証言作
大雨と羅生門
3人の当事者の食い違う証言
目撃者が語る無様な真実(無様な殺陣)
捨て子の服を奪う下人
捨て子を連れて帰る杣売りに希望を見る旅法師
人は保身のために嘘を付く、真実は藪の中
回答付きの「藪の中」
人の不完全性が描かれている。
人の醜悪さを前面に押し出しつつも、最後は希望を見出す。
監督の解釈を踏まえた「藪の中」。
行為自体ではなく、行為に至った動機を問う。
嘘とは何か。盗みとは何かを聞いてくる。
しかしこれを今、面白いかと言われると…さすがに古典かな。
貞操観念やら現代の感覚と違いすぎる。
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