「噓をつく人がいても、それでも正しく生きる。」羅生門 Takehiroさんの映画レビュー(感想・評価)
噓をつく人がいても、それでも正しく生きる。
黒澤明監督の映画である。盗賊が夫婦を襲って奥さんをおかして夫を殺してしまうという性暴力の話なのだが、その経緯が当時者3人によって証言が食い違い、何が本当なのかという事になる。捕まえられた裁判のような場で、まずは盗賊が証言する。次に奥さんが証言する。盗賊と奥さんの言い分が、夫の死に至る経緯がまるで違っている。次が現実的でないと言ってはおしまいだが、巫女の口をかりて死んだ夫が証言するのである。これもまた二人の証言と違っている。これで何が本当なのかとすると推理になってしまうのだが、私が最初みた限りでは、なぜか、巫女の口からではあるが夫が妻の事を悪者にしているのが不自然であった。とすれば、わざわざ妻を悪者にしてまでの話だから死んだ夫の証言(変だが)が事実だろうかとも思えてしまう。そこからなぜ妻と盗賊がそれぞれ違う証言だったかを推理したほうが良いだろうか。これは現代人としては巫女には失礼だが、そうすると変になるか。
盗賊と奥さんの話だけ比較すべきだろうか。だとすると。メモしていないのでわからなくなってしまった。私の記憶力がそもそも弱すぎた。ところが羅生門でそれを目撃したという男が、裁判のような場ではないからと別の雨宿りの男に語り始める。すると、死んだ夫が冷徹だったと言うことになる。
しかし奥さんの言葉でそれを改めていた。羅生門の男の話が一番女の情念を感じるだろうか。では妻の証言は何だったか。それに、羅生門の男お言い分が正しいなら、どうして奥さんは夫に背後から味方しなかったのか。夫が勝つものと信じたか。男なら闘って女を奪えと啖呵を切ってしまったからか。盗賊はかっこうをみせるためにそう語ったのか。やはりでは奥さんの証言の違いは。
その心理を考えるのがみそなのか。奥さんは盗賊のほうに味方していたような証言だったことになってしまうのか・・・。雨宿りは3人いたのだが、羅生門に残る2人の間の最後への会話が、噓がつける人間をどう信じるかという賭けを考えさせる。戦争後5年の間に作られ上映された映画だ。
戦争からの噓と、それでも人間は信じていかねば社会が成り立たないという意味もあったのだろうか。