「与えられた秩序の果てにある、精神の荒野」用心棒 neonrgさんの映画レビュー(感想・評価)
与えられた秩序の果てにある、精神の荒野
『用心棒』は、一見すると痛快な娯楽活劇の傑作である。しかしその裏面には、戦後日本の精神史が抱えた「倫理の源泉喪失」という構造的問題が、容赦なく焼き付けられている。
腐敗しきった町に現れた浪人・三十郎(三船敏郎)は、町を支配する二つの暴力勢力を手玉に取り、互いに壊滅させた上で静かに去っていく。構造は明快だ。だが、三十郎が去った後の町には、秩序の再建も、倫理の回復も描かれない。ただ“空白”だけが残される。
この構図は、戦後の日本に酷似している。すなわち、敗戦によって自ら秩序を構築する能力を失った日本に、外部から善意とも支配ともつかない力(GHQ)が介入し、暫定的な秩序を与えて去っていったという構造そのものだ。町は一応「浄化」されたように見える。だが、その場しのぎの均衡の中に、主体的な理念や倫理の再建はなく、むしろ「内側から倫理を再生できない社会」の空虚さだけが浮き彫りになる。
三十郎は“善意の救済者”というよりは、秩序の狭間にいる裁定者のような存在であり、その不動の姿は、日本が直面した「他律性の罠」とも重なる。外部の力によって表面的に整えられた社会は、内部からは再生しない。そういう未来の不毛さを、『用心棒』は何も語らずに見せてしまっている。
一方で、映画としての完成度は驚異的である。構図、テンポ、音響、殺陣、カット割り──あらゆる技術的要素が最高水準に達している。戦後日本が倫理の基盤を失いながらも、技術力と表層の秩序だけで突き進んできたその姿に、この映画の構造はあまりに似すぎている。
『用心棒』とは、黒澤明が日本という国の精神的な構造を、意図せずして、あるいは無意識のうちにフィルムに刻み込んでしまった作品である。そこに描かれるのは「圧倒的な技術力」と「思想的空洞」とが共存する風景──そしてそれこそが戦後日本の正体だった。
私は黒澤明の作品を順に追って観てきたが、俯瞰してみると、その全体像は戦中・戦後の日本が「主体性・倫理・秩序の源泉」を失っていくプロセスを鏡のように映し出している。
4K UHD Blu-ray (クラリテリオン版)で鑑賞
96点