許されざる者(1992)のレビュー・感想・評価
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真実は誰も知らない
何故、西部劇なのだろう。そんな疑問にしっくりとした答えのある映画だったと思う。法も無法なら、人の噂も無法。誰彼の評判はねじ曲がり、名を上げるためなら誇張して、恨み辛みの尾ひれを付ける。情報も行き届かない西部開拓時代ならばこそ。
罪状が更に演出された賞金首を狙うため、恐らく自分で付けた呼び名を背負った若いガンマン・キッドが、昔の噂を聞きつけて、悪名高いウィリアム・マニーを引っ張り出そうとする。そんなマニーも、銃の狙いはからっきしで、馬にもからかわれて落馬する始末。いったい何が真実なのだろう。そんな思いが、映画を見ていて脳裏によぎりっぱなし。
この映画の趣旨はそれでいいのでしょうか。いろんな登場人物が乱立して、様々なエピソードが交差して、その全てを追うのも大変ですが、冒頭から提示された、「娘が何故、そんな極悪人と結婚したのか」という疑問こそが、この映画で提示されたテーマだったのだと思って間違いないでしょう。その疑問も再び、事を為し終えたマニーが去った後も語られる。同じ語りで話を閉じる、この映画の締めくくりはとても好きです。
そして、映画としての流れも面白かった。キッドが実は初めての殺人だったと震える顛末も胸に来たけど、すっかり老いぼれたと見えた老ガンマン・マニーが、遂に禁じていた酒をあおり、本性を魅せるクライマックスは最高だった。あの悪徳保安官も銃の駆け引きが巧妙だったけど、更に上手を行くマニーの腕前にスカッとした。格好いいと言いたいけど、大事な友人の怨み返しならばこそ、化けの皮を剥がした姿は壮絶であり、悲痛だった。
そして持ち帰った賞金で店を構えた、ということでしょうか。そして、せめて幸せになって欲しいけど、彼の目指すところは子供たちの幸福であり、全てはそのための骨折りだったのではないかと思います。保安官に「地獄で待ってる」という台詞には、「ああ、その通りだな。俺もロクな死に方はしないだろう」と頷いていた気がする。残忍な悪党だったという噂も、彼についてはもしかしたら自認していたのかもしれない。亡くなった(登場していない)奥さんは「そうではない。そんな人じゃない」と思っていたと思うけど。
そういえば、鳥山明作の西部劇要素の強い「SAND LAND」も亡くなられた奥様は写真だけの登場でしたね。これにインスパイヤされたのかな。マニーだけは真実であり、奥様だけがそれを見抜いていた、というのがこの映画の根幹なのだろうと思います。だからこそ、それが冒頭と結末に語られた。その際のギターの音色が素晴らしい。美しい夕焼けを魅入りながら、そのギターの音色を聞き入りました。素晴らしかった。
あと、明治初期の日本を舞台にリメイクされているのですね。「七人の侍」とは逆に時代劇への異色とは面白い。機会があれば見てみよう。
娼婦を人間らしく扱え‼️
1880年代、🇯🇵明治時代中〜後期くらい。
🇺🇸西部劇の時代。
娼婦宿で客の牧童が相手にナイフで斬りかかる。
なぜこんなことをするのか?
酒酔いのふざけ行為か?
娼婦たちが必死に止める。
一般の女性にはしないだろう。
保安官が来た。
宿のオーナーも怒り心頭。
娼婦たちが縛り君にしてくれ、と懇願するが、
牧童たちに所有する馬をオーナーに与えろ、と
示談に持ち込む。
上手く裁くなぁと思ったが、
よくよく考えると、牧童を厚遇していたのだろう。
ウィリアムは、若い妻に先立たれ2人の子と豚を飼って暮らしていたが、相次ぐ伝染病に頭悩ましていた。
そこへキッドという若者が、ウィリアムの若い頃は
腕利きのガンマンで無茶苦茶乱暴であったろう、と
言い、娼婦を切りつけた牧童の賞金を狙いに行こうと誘って来た。
最初は断ったが、また豚が伝染病にかかり
収入の見込みが絶望的になり決断してキッドを追う。
途中、ウッディに話すと俺も行く、と参加した。
先程の町に昔早撃ちガンマンだった男が来たが、
何もせぬ前に、保安官に銃を隠し持った銃も取り上げられ、丸腰になった身を蹴られ続けてボロボロになって、
留置所に入れられ、翌朝、馬車に乗せられ放り出された。
ウィリアムたちが町に着いた。
キッドは売春宿のアリスのところへ。
賞金稼ぎの件かと思えば、
それもだが、ちゃっかり前借りまでして
アリスにお仕事してもらうっちゅう、なんちゅう⁉️
男は仕方ないのか⁉️
ウッディも上に行き、
一人になったウィリアムに保安官が、
前のアイツのように無抵抗であるのに殴る蹴る。
だんだん、タイトルが誰かわかって来た。
ウィリアムたちは岩山の陰に隠れて、
一人の牧童を狙っていた。
最後ウィリアムが仕留めるが、
ウッディはやる気を無くし、二人から離れて行った。
もう一人をキッドが仕留める。
初めての人殺しだったようだ。
キッドも人殺しが怖くなりビビってしまう。
離れたウッディが保安官たちにやられたと知った
ウィリアムは、町に戻る。
酒場の入り口にウッディが。(酷いことする❗️)
ウィリアム、襲って来る奴らを見事にやっつける。
あの保安官も。
帰って行くが、その後の消息不明とか。
🥰本作、名優がたくさん出てられる凄い作品❗️
🥰クリント•イーストウッドさん監督作品って、
基本真面目ですね。
人殺しにでも、弱者を虐めたという理由の上に
弱者の味方になっている。
監督として、制作するなら訴えるものをつくりたい、
というお考えとお見受けしました。
モリコーネのインタビューでも、謙虚に
役者を引き立ててくれた、とおっしゃり、
身体にだいぶ気をつけておられ、
煙草も出演シーンでしか吸ってられないとか。
ただ、女性遍歴が凄くてまた別物か、と思います。
若い頃のお顔が超イケメンだから仕方ないか。
これからも作品制作していただきたいと願います🤲
シニアオールスター
オスカー取った名作です。
ハックマン、フリーマン、ハリス各先輩をゾロリと揃えてそれぞれの持ち味を十分に生かした演出はさすが同世代の俳優出身の監督ならではです。
派手さも起伏もあまり感じない地味なストーリーをゆったり鷹揚に演出している点が映像の深みと西部劇情緒を際立たせています。
許されざる者とは?
*こちらのレビューは以前既にあげたものです
*2023/11/8投稿済み
昔から好きだった作品。許されざる者とは?この作品を鑑賞する全ての者に問うている。
それは主人公のマニーであり誘ったキッドでもあったしマニーから誘われて来たネッドでもあった。そのネッドを鞭で嬲り殺したリトルビルしかり、その遺体を見せ物にしたバーの主人でもあり懸賞金を掛けた娼婦達もである。そしてそれらを視聴している我々も殆ど同罪であるのではと問いかけている。
しかし映像は非常に綺麗で音楽も素晴らしい。我々を当時の世界へ引き込んでくれた。
人間達のドラマに反しあの時代の自然がとても美しい事が余りにも対照的である。
マニー怖っ❗️
賞金首のカウボーイを追い詰めた時、ネッドは何故撃たなかった(撃てなかった?)のだろうか🤔
キッドと同じように本当はネッドも人を殺した事がなかったのだろうか🙄
そこが気になってしまった😅
終盤のマニーが酒場に一人で乗り込んでからの銃撃戦が凄かった❗️
保安官役のジーン・ハックマンも良かった😆
自分のやり方で職務を全うしてるだけなんだけど、なんか悪い方に行っちゃってるという😅
自分なりの正義って難しい😓
ウィリアムは賞金稼ぎに参加したのを後悔したのでは
ウィリアム達一行はターゲットの殺害には成功した。しかしウィリアムの相棒ネッドは結局ターゲットを殺していないのにもかかわらず、保安官の拷問の末に殺されてしまう。ウィリアムはネッドの復讐のために保安官達を皆殺しにする。賞金稼ぎをきっかけに、往年のように多くの人々を殺し、相棒まで死なせてしまった彼は、きっと虚しさを感じただろう。
ウィリアムは賞金稼ぎに参加したのを後悔したんじゃないだろうか。ラストのモノローグからすると、妻の墓がある場所から遠いところに引っ越したようだ。それも、既に妻が亡くなっているとはいえ、再び殺人に手を出したことについて、妻へ顔向けできない気持ちがあるのでは、と感じた。
ストーリーは結構単調で、あまり面白くは無いと感じた。
許されざる者とは?
昔から好きだった作品。許されざる者とは?これを観る全ての者に問うている。それは主人公のマニーだし誘ったキッドでもあったしマニーから誘われて来たネッドでもあった。そのネッドをムチで嬲り殺したリトルビルも然り、その遺体を見せ物にしたバーの主人もであり懸賞金を掛けた娼婦達もである。そしてそれを視聴している我々も殆ど同罪であるのではと問い掛けている。
しかし映像は非常に綺麗で音楽も素晴らしい。我々を当時の世界に引き込んでくれた。
人間のドラマに反し、あの時代の自然が非常に美しい事が余りにも対照的である。
「許されざる者」とは何か?
「許されざる者」を理解するためには、イーストウッド出演・監督の映画の系譜、彼の人間性を知る必要があると思う。彼は、朝鮮戦争に従軍し、アメリカ独特の男性像、強い男マッチョを表の姿として生きてきた。それは、過去のマニーの姿と重なる。しかし、その後、女性や人の優しさに触れる中で、自分の暴力性、制御てきない性欲と向き合い、悔んだり、怯えたりすることが出てきたのだろう。それは、年齢を重ね、過去の自分に怯えるマニーと重なる。
娼婦は、この世界で弱い立場にされている国や人々か。正義の名の下に、怪しい者を暴力で弾圧するリトル・ビルは、町という社会を牛耳っているアメリカ等か。賞金稼ぎは、アメリカ等の暴力をよしとしない勢力ととらえれば、この社会の縮図を、「許されざる者」という映画で描いていることになる。
自らの暴力性に気づき、自分の罪に傷ついていたマニーも、娼婦を切り刻んだカウボーイであれば、殺して賞金をもらってもいいというのは、マスコミによるプロパガンダで相手が非人道的な存在となれば、殺しても良いということにつながる。キッドとマニーは、二人を殺して目的を果たすが、罪もない友人のネッドを嬲り殺され、彼が、あの伝説の人殺しのマニーだと街の人たちに認識される。マニーは、ネッドに対する復讐と掘り起こされた記憶とレッテルにより、正義の名を借りた暴力を振るう奴らと戦い、娼婦等、弱い立場の人たちのために、殺人鬼に戻る決心をつける。
上記の考察に基づけば、政治的なプロパガンダによって悪者とレッテルを貼られ、戦いの連鎖が続いてしまうと、復讐が復讐を呼び、この世界で「許されざる者」になっていくということだ。
世界が「許されざる者」を生むシステムは、正義の側がプロパガンダを操ることによって、自分たちに都合が悪い存在に悪のレッテルを貼ってしまうからっていうことを言いたいのではないかと、イーストウッドのこれまでの映画に込められたメッセージから理解している。
誰が許されざる者⁉️
この作品を捧げた、師と仰ぐセルジオ・レオーネ監督作やドン・シーゲル監督作においてシガーをくわえた瞬間から、数多くの西部劇に出演してきたイーストウッドが、ようやく実力を爆発させた傑作です‼️娼婦の顔を無残に切り裂いたふたりのカウボーイ、奴らに賞金首をかけた娼婦たち、その金に群がるならず者ども、力ずくで町の秩序を守る保安官‼️誰が "許されざる者" かという問いを掘り下げながら、人間と暴力の本質を見つめ直す、これはもう哲学です‼️主人公ウィリアム・マニーが、モーガン・フリーマン扮する親友の死を聞かされて、ウイスキーをがぶ飲みするシーン‼️怪物への帰還ですね‼️そして音も立てずに酒場に出現した怪物が保安官と対決するクライマックス‼️クリント・イーストウッドvsジーン・ハックマン‼️ハリー・キャラハンvsジミー・ドイル‼️「ダーティハリー」vs「フレンチ・コネクション」‼️映画ファンにはたまらないキャスティングです‼️ラストの夕陽の情景に被さるギターの感傷的な音色も忘れられません‼️こっからですよね、イーストウッドの監督黄金時代の始まりは‼️
【”殺しは非道な行為だ・・、と且つて許されざる行いをしていた男は言った。”暴力の連鎖は駄目だ!”と、マカロニウエスタンで地位を確固にしたクリント・イーストウッドが言っているように思えた作品である。】
■1880年。かつて西部に悪名を響かせた無法者、ウィリアム・マニー(クリント・イーストウッド)は小さな農場で幼い子供たちと共にひっそりと暮らしていた。
自分を真っ当な道に戻してくれた妻を若くして亡くした後も、穏やかな日々を過ごしていたが・・。
ある日、マニーのもとに「キッド」と名乗る若者が現れる。マニーはキッドに誘われ、町の娼婦の顔を切り刻んだならず者の賞金稼ぎの手伝いをすることになるのだが…。
◆感想<caution!内容に触れています。>
・久方振りに鑑賞したが、若き日に”赦されざる行い”をしていたクリント・イーストウッド演じるマニーが、人を殺した事もないキッドの誘いに乗り、且つての悪友で、今は穏やかな生活を送るネッド(モーガン・フリーマン)を誘い、”ならず者”の賞金を表面上は狙う姿を描く。
ー だが、私にはマニーもネッドも、自分達と同じく、若き日の蛮行を行う者を制裁するために、重い腰を上げたように見えた・・。-
・虚勢を張っていたキッドが、初めて人を殺めて”もう人殺しはしない・・”というシーンも、”暴力の連鎖は駄目だ!”と、クリント・イーストウッドが言っているように見えた。
・町を守る、保安官(ジーン・ハックマン)が、ネッドを拷問にかけ、晒し物にしたことを知ったマニーが保安官に対し、報復する激烈なシーン。
ー 正義を語りつつ、”遣っている事は且つての自分達と同じではないか!”というマニーの怒りが伝わって来るシーンである。
<マカロニウエスタンで、自らのキャリアを確立した、クリント・イーストウッドが西部劇に敬意を表した作品である。
敢えて言えば、イングリッシュ・ボブは何のために登場したのかな?と思ったシーンを除けば、面白き作品である、>
観て良かった。
クリントイーストウッドが大好きです。
特にマカロニウエスタン3部作が。早撃ちガンマンのイーストウッドが最高にかっこ良くて。
だからこの映画はちゃんと観たことが無かった。ライフルを持った年老いたイーストウッドをあまり観たくなかったから。
でも観て良かったかな。
ジーンハックマンは悪役が似合ってるな。(最後ザマーみろと思った。)
モーガンフリーマンには結局汚れ役は向かないんだな。
リチャードハリスにはもうちょっと見せ場をあげて欲しかったかも。
年取ってからのイーストウッドの作品はテーマが重たいものが多くて正直ちょっと疲れちゃう所もあるけど、この作品はそこまで重くは無かった気もする。
でも、“行き過ぎた権力に潜んだ悪”と“暴力の中にある正義”をうまく対照的に描き観る側に考えさせるような作りはなかなか彼らしい演出で、テーマとしても深い物が有ると私的には感じました。
最後に、ライフル不発からの拳銃で一気に4~5人を片付けたシーンは往年の早撃ちイーストウッドファンには嬉しかったです。
暴力とは、
取り返しのつかないもの
でも人は暴力なしに、暴力を意識せずに生きていけない。
ヒト以外の生き物はその殆どが、獲物を生きながらにして喰い殺し、またやがて天敵の口の中で殺されますが、それは暴力なのでしょうかね。
考え過ぎてしまいました。でも私にとってこの映画は、人が力で生きた時代のさまを見せる「西部劇」の最高峰なので、その主題が心に襲いかかってくるのは仕方ありません。
じつは最近バカみたいに劇場の新作を見続けているので、新宿に出掛けて1,800円払ってわざわざ古い映画を観ても後悔するのではと思いましたがそんなことはなかった、やはりとんでもない映画です。こういう素晴らしい追体験・再体験ができた名画座の時代が懐かしいです。
初見から30年。今更のレビューですが、他の方の評価が思いのほか低いので書きました。渡辺謙作品の努力も褒めたいと思っているほどの私ですので。
本作はまさにイーストウッドの集大成と言えるだろう。
俺の中では紛うことなき最高の映画だった。
表向きは西部劇なのだが、あまり激しいアクションはなく、複雑に絡み合う人間ドラマを主軸に、広大な自然を背景に描ききったまさに傑作だった。最後の西部劇と言うだけあってイーストウッドの集大成とも言える作品だった。(なんでも当時は本作で引退するつもりだったとかなんとか。)彼の2人の巨匠、レオーネとシゲールに捧げているとあるが、映画本編と本作のバックグラウンドを見ればその姿勢が容易く見てとれる。西部劇をメインに、激しく大作思考の点をレオーネから、そして人間ドラマの複雑さや、アクションの立ち回り、制作に至っては効率よく作るという点でシゲールの影響を色濃く見られるのだ。
今までのイーストウッドの西部劇の良いところを全て採り入れているのにも関わらず、ガンマンが人を殺すことに対して否定的で、ある意味西部劇自体に対するアンチテーゼであるとも言える本作は、西部劇としても面白いのだが、人間ドラマとしても深みがあってかなり見応えがあった。タイトルが許されざる者(forgiven)であることも、誰が許されざる者だったのか、みんなだったのか、それても主人公か、それとも西部劇で人をいとも簡単に殺すことに拍手喝采を送る我々観客にか…と色々考えさせられるし、よくできている。
イーストウッドだけではなく、モーガン・フリーマンもジーン・ハックマンもみんな確かに銃の腕前はよく、強いのだが、重い過去を抱えており、それを自分で肯定して生きている哀れで滑稽な人物と書かれているのも見どころだ。特にジーン・ハックマンが最高に好きで、イングリッシュボブに偉そうにしているシーンや、その後の最期のシーンなんかはとても人間味溢れていて良かった。
イーストウッドの弱々しい演技がグッときた。最後のシーンなんかは、また彼の西部劇が見れて良かったという、安堵感や興奮を感じた。
所々出てくる雄大な背景である自然が美しく、そして力強く、目を奪われた。西部劇の影の主役とでも言うべき、当時のアメリカっぽい風景をしっかりとフィルムに納めていて満足だ。余談だが、最近マジで西部劇の作品を見ないなと思う。本作の当時ですらハリウッドでは時代遅れとされていて、その意味でもイーストウッドは最後の西部劇と表していたのだから、かなり骨董品であることは言うまででもないかもしれないが、それでもやって欲しいものだ。最近見た西部劇と言えば”ローンレンジャー”だが、あれももう8年前。あれは興行的に失敗したし、西部劇はもう見限られていて、ハリウッドで作られることはないのかもしれない。
無法者の地で生き残る厳しさ
クリントイーストウッド扮する悪名高きウィリアムマニーは牧場を営み足を洗っていたが、娼婦を切りつけた賞金首を取ろうと話が持ちかけられた。馬に乗る事すら久しぶりだったが、マニーは2週間で帰ると子供たちに告げた。昔馴染みのネッド役にモーガンフリーマン、保安官役にジーンハックマンと豪華キャスト。昔の映画だから展開がいまいち遅かったよね。しかし、無法者の地で生き残る厳しさを表していたな。
主人公はサンフランシスコで“正しく”成功したのだろうか?
NHKBSで放映されたので何度目かの再鑑賞。
私はクリント・イーストウッドの作品では
「マディソン郡の橋」「グラン・トリノ」
「ジャージー・ボーイズ」が好きだが、
この作品は好みではない。
暴力が連鎖する世界を見せられて
心穏やかにはいられないが、
ジョン・フォードが描く西部劇よりも、
ある意味、当時の真実を描いたとの観点は
理解出来る。
しかし、主人公の妻からの影響の貫徹性と
彼女への想いについての描写は疑問だ。
ラストシーンでの主人公の妻の母の
モノローグ「娘が何故悪党と結婚したのか
分からなかった」については、
一人一人の、特に男女間の心はなかなか
うかがい知れるものでは無いし、
この世の中ではいくらでもある人間関係で、
妻がどこまで主人公にプラス影響を
与え続けられていたかについては疑問だ。
サンフランシスコで成功したという主人公
が、「再生は妻のおかげ」と言い、
彼の人生にとって意味ある妻だったと
言いたいのなら、
彼が妻の墓を訪れた様子が感じられない
義母のモノローグは何を意味するのか。
サンフランシスコで本当に“正しく”成功した
のか等、彼の心の中にまだ妻がいて、
悪党を超える人間性が
本当に芽ばえていたのかは分からない。
この時代では度胸と恫喝力だけが
社会を支配する源だったかも知れない、
保安官でも、賞金稼ぎでも、同じように。
周りに恐怖を植え付けて優位に立つ、
そんな非人間的な社会は当たり前のように
あったのだろう。
そんな時代に生まれてなくて良かったと思う
と共に、少しでも油断をすると、似た輩に
この世を支配される時代に成りかねない。
戦前の日本がそんな世界だったろうし、
現代でも良く似た国家や社会が
多数存在しており、
そんな時代にならないことを願うばかりだ。
アメリカ映画だけど格調高くなったマカロニウェスタンだ
私の西部劇の原点がマカロニウェスタンなので、西部劇を観るとどうしてもそれと比べてしまう。この映画はマカロニウェスタンを彷彿とさせて、しかもより格調高い作品に仕上がっている印象を持った。
クリント・イーストウッド監督作品は後味の悪い映画が多いが、これは例外的に気持ちのよい終わりかただ。悪者達をたった一人でやっつけ、自分はその町から去って行くヒーロー、まさにマカロニウェスタン的ハッピーエンディングだ。ヒーローは絶対殺されないというのもそうだし(撃たれるのではないかと最後まで緊張感はあったが)、顔を傷つけられた娼婦と一緒になってもおかしくない展開だったのに(個人的には期待したが)、孤独に立ち去るのもやはりマカロニウェスタン的だった。
エンドロールの最後に、「セルジオとドンにささぐ」となっているが、多くのマカロニウェスタンを監督したセルジオ・レオーネと「ダーティハリー」を監督したドン・シーゲルのことかな?
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