郵便配達は二度ベルを鳴らす(1942)のレビュー・感想・評価
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人生の敗北者をリアリズムで描いたヴィスコンティ初演出の荒々しい凄み
ジェームズ・M・ケインの原作を読んで、その面白さと卓越した表現の荒々しさに感銘を受けた。それでその面白さを期待しすぎて映画を観てしまい、予想とは違った印象を持った。ヴィスコンティがこの処女作で表現したかったのは、夫を裏切り殺人行為に至る女の情念と、その熱情ある女性に魅了された男の戸惑いと無自覚な犯行、そして罪の恐れであり、絶体絶命な境地に追い込まれた時の人間の生々しい生き様である。推理小説の面白さや謎解きではなく、どのような状況下で男と女は、どう表情を変えていくのかが、ヴィスコンティの関心と興味であった。
先ず、前半のレストラン経営者ブラガーナとジーノ関わり合いが、ジャン・ルノワール的な人間表現で見事である。妻ジョバンニがジーノに好意を抱きながら、夫の前では無関心を装うところが面白い。町の酒場でオペラのコンクールがあり、ブラガーナが意気揚々と自信満々に歌い上げるシーンと、三人で裏道を歩くショットは、ルノワールタッチを連想しないではいられない。まだヴィスコンティの演出タッチが確立しないのは解るが、これほどまでに師匠の演出をそのまま再現していることに驚いてしまった。この後殺人が行われるが、映画は殺害シーンを描かない。次のショットでブラガーナの遺体が車の傍らに置かれている。後のジョバンナの事故死を強調するための演出であろう。
ジーノが事件後同じレストランで生活するのに耐え切れず、若い娘アニータと仲良くなるシークエンスは、ヴィスコンティらしい演出を見せる。夫に掛けてあった保険の額の大きさに驚くジョバンナの姿も印象的に描かれている。激しい恋愛の無計画さと、結果お金の損得勘定の現実に引き戻されて不幸になる世の常が窺われるところだ。運命も二人の再出発に逆らうように流れる。
イタリアネオレアリズモの先駆けとなるヴィスコンティの演出は後半に特に顕著である。マッシモ・ジロッティとクララ・カラマイの熱演もあって、赤裸々な欲望に負けた男と女の転落がリアリズムタッチで描かれ、その行き詰まる迫力が見所であった。
1979年9月14日 飯田橋佳作座
姦通妻の夫を殺すタイミングに意外感
危機を掻き立てる音楽により、ここで姦通妻のデブ旦那を殺めるのかと思わせて肩透かし。そして、次の出会いで事故に見せかけた殺害現場シーンを見せずに、いきなり事後後の映像から見せるのは、ユニークで面白いと思った。
主人公が夫婦の元を一度去り列車の中で出会ったスペイン男の芸人と、夜泊まったベッドを共にするのが少し怖い。夜、マッチの火でスペイン人が主人公の様子伺うが深く寝入っていて何も起こらずなのだが。これってラブシーン?
旦那殺しの後2人がハッピーにならず、レストランに縛られ憂鬱になってしまう主人公の姿。そして、久しぶりにスペイン男を見つけて笑顔で駆け寄るのも、どこか恋愛的。結局二人は喧嘩別れの様になり、レストラン妻のとこに戻ってしまうのだが。スペイン男は結局振られてしまった?
行きずりの女と浮気もし、裏切られたと勘違いしていた主人公がお腹の子供と共に妻と新たに新天地求めて運転するも、本当の死亡事故起こすのはやはり因果応酬的で納得。
名監督ヴィスコンティの片鱗はまだ見えず
購入DVDで観賞。
時代的価値は有ったとしても現代の視点では
どうだろうか?
妻は、実は彼女に保険金を残そうとする程の
気遣いがある夫なのにも関わらず、
それを全く理解出来ず、
生活資金面は夫に、性的な対象は
やって来た男にとの御都合主義者。
やって来た男は、本気で女に惚れるような
純粋な精神の持ち主のようでも、
主体性が無く、
精神的に不安定な時は簡単に他の女と関係
に走るほどの意思の弱い人間。
人間性そのものから得るものが無い設定
に加えて、
ストーリー展開にもぎこちなさが散漫
していて、
後に名監督になるヴィスコンティの第一作
としては、描写にはその片鱗を見受けられる
ものの、作品全体としてはまだまだ発展途上
のように感じる映画だった。
●タイトルの妙。
男と女。腫れた惚れたでおっさんかわいそうに。
二転三転がなかなか楽しい。
そりゃあラナ・ターナーに言い寄られたらイチコロだ。
実際、プライベートでは大物ばかり浮名を欲しいままにしたとか。
タイトルは、居留守使っても郵便配達員はわかってるから、二度鳴らすってことなのね。
ガーネット版のほうがいい
1946年のテイ・ガーネット版のほうが好きだ。欧州びいきの私としては珍しい。
合衆国で撮られたガーネット版は、卑劣な男女に反感を持つ観客を、ラストで一気に主人公への同情に反転させる演出が冴えている。
このビスコンティ版には、最初から最後まで男の優柔不断なダメぶりにつき合わされる。観客が自分の内面の変化に驚くという感動はない。
「取りつかれる」という名の映画
映画を見始めると、「Ossessione」というイタリア語のタイトル。はて、邦題とずいぶん違いそうだなぁと思って調べてみると、英語では「Obsession」。つまり強迫観念とか、取りつかれるとか、ですね。「妄執」なんて訳されたりしてます。観終わってみると、たしかにタイトルぴったりでしたね。
そんでもってタイトルがらみでもうひとつ不思議だったのは、えっとどこに郵便配達が出てくるの?という疑問。映画史への無知を曝すようで恥ずかしいのですが、私、ずっとこの映画、郵便屋さんの話だと思ってましたよ。でまぁ、郵便屋さんは出てこないわけで、タイトルの理由はネットなんかで調べてください。
この映画、私にとっては、ずっと観ようと思いつつ、ずっと観ていなかった映画のひとつなんですね。なんだろう、観たいという気持ちよりも、観なくてはいけない、という責務みたいなものが背景にあるからでしょうかね。有名だし、観とかなきゃ、みたいな。そういう義務感が、どうにも手に取ることをためらわせてきたわけです。
で、観てみたのですが、うん、たしかにネオレアリズモ感がすごいですね。なんていうか、1942年ですよ、この映画の公開。ドイツ・日本との三国同盟が1940年、そんでムッソリーニ退陣が1943年、そんな激動の中でこの映画作って公開してるって、どんだけ気概に溢れていたんだって感じがしますよね。映画魂か、はたまたヴィスコンティのうなるようなお金か。それでもって、この映画のこのテーマですよ。デ・シーカとかの時代状況を反映させた社会派的な感じでもなく、やっぱり愛、それも性愛ですもんね、ヴィスコンティってこういう作家なんだなぁ、とか感じちゃいましたね。
グッとくるというほどの感じはなかったんですが、やっぱりこの時代にこの映画、という文脈のもつ重みはすごかったですね。
メモ
夫を殺して駆け落ちする若い男女の話。
冒頭、トラックから降りて店に入るジーノの撮り方がいい。かっこよく映画が始まるかんじ。
もう我慢できない!とあっさり夫を殺すも、かなり凹むジーノが面白い。人を殺しておいてあの規模のパーティを開いたせいで、ジーノがひきこもってしまうのがかわいそう、と思うと親友を見つけて顔を輝かせるジーノがかわいい。
お金と子どもと新しい生活が始まるところで事故死という、捉え方によればひどいオチ。
ジーノの泣き顔でthe endというところはセンスがいいと思った。今までジーノが見たこと感じたことしてきたことと何の関係もない終わりがやってきた感じ。どうしようもない感じ。バッドエンドともちょっと違う。
ラストで二人が逃げ切れたら幸せになれたかな?あの二人ならなれたかもと思う、、 ジョバンナはしっかりしてるし。ジーノは嫉妬深いし。
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