「映画という「2」」ヤンヤン 夏の想い出 yutakさんの映画レビュー(感想・評価)
映画という「2」
【90点】
ものすごい傑作です。語れる切り口がいくらでもありそうな映画でした。この監督の作品がもう観られないというのは本当に残念なことです。
原題の『A One and a Two』についてヤン監督は、「人生で起きるいくつかのことは、数字の1+2と同じくらいとても簡単である」と解説されていますが、そのことに対応するように、作中の青年が「映画は人生を3倍にした。なぜなら2倍の生活を与えてくれたから」という意味のことを言っています。つまり、ヤン監督にとってこの映画は「2」なのです。
そう考えると、この映画のなかで繰り返されたパンを用いた空間の対比も、赤と緑も、何度も登場した鏡も、祖母と孫娘も、兄と弟も、夫と妻も、父と息子も、少年と少女も、すべて「2」に対応していたように思われてきます。なにより、姉弟の名前がティンティンでありヤンヤンであったのは象徴的です。
このような対比関係は物語を通じて強調されていたと思いますが、その中でも特に執拗に登場したものは赤と緑の色彩です。ティンティンが夕暮れのガード下でボーイフレンドとキスするシーン、信号がタイミングよく緑から赤に変わっていったのは美しい画でした。それ以外にも、緑の制服を着たティンティンが歩くと、わざとらしく道に赤いバイクが停めてあったり、色彩へのこだわりはやり過ぎてちょっと笑いを誘うレベルですね。ただそれも理由あってのことで、赤と緑の対比が、最終的に二つの対照的な死として物語のクライマックスを彩ったところは、笑いを超えて戦慄しました。そしてお話は綺麗に、式で始まり式で終わったわけです。
ところで、ヤンヤン少年はやはり失恋したのでしょうか……?
(ここまで書いて気付きましたが、この作品では女性が突然消えますね。叔父の元彼女、妻、父の元彼女、娘の友人、小田、学校の少女、そして祖母。帰ってきたのは妻だけではないでしょうか? ちょっと不思議な感じです。夢(理想)と現実、過去と現在の対比でしょうか。そういう対応があるとするなら、最後の教室シーンは、全知=完成(卒業)=死と、無知=未熟=生者とを対比させたものだと捉えることもできそうです)