「神話の生きる中世日本が舞台。人々の生きる姿は現代も同じ。ぜひ映画館で!!」もののけ姫 mary.poppinsさんの映画レビュー(感想・評価)
神話の生きる中世日本が舞台。人々の生きる姿は現代も同じ。ぜひ映画館で!!
何度見ても深く考えさせられる。でも説教くさくは無く、様々な人間のありのままの生きざまを描いている。1997公開当時も映画館で3回見て、金ロードやDVDでも何度も見たが、映画館で23年ぶりに見れて良かった。やはりジブリは映画館で見るべし! 小さなTV画面じゃ伝わらない魅力がたくさん。
宮﨑駿作品は、セリフでほとんど説明しないから、一言一句聞き逃さないように気を付けて、画面もしっかり隅々まで見て、見る者の理解力・想像力が必要とされるから。
(この作品、声優が少なく俳優ばかりだから、声だけでの演技力が微妙で 重要なセリフなのに聞き取りづらい場面がたくさんある。一番上手なのは、おトキさんの島本須美。やはり声優でなきゃ…。石田ゆり子の 感情表現が不足すぎる下手さは、何度も見るうちにやっと慣れた笑。
この映画を理解するには、日本の歴史背景について、最低限小学6年生レベルの知識は必要です。アシタカ達 蝦夷一族はヤマト政権の反逆者とされ、身を隠して山奥に暮らしていること。 タタラ場では、人身売買された娘たちやハンセン病患者「えた・非人」をエボシがひきとり 仕事と安定した生活の場を与えていること。エボシ自身も遊女あるいは白拍子としての苦しい過去があること。 サンのように貧困ゆえ親に捨てられる赤子は珍しくなかったこと(サンの場合は、親は森を犯した つまり貧困ゆえに木を切ったり動物を殺して食べたりして森の神を怒らせたのだろう)。 ジコ坊のように僧侶でありながら兵士であるなまぐさ坊主が存在したことなど。当時のパンフにはちょっと書かれてますが、聞き取りにくく説明不足なセリフだけで瞬時に理解するのは困難ですし、小さなお子さんと一緒に見る大人はぜひ、昔の日本の歴史や、現代よりも厳しい差別や貧困についてやさしく教えてあげてください。 自然についても、一言で自然と言っても、太古の森(シシ神の森、その舞台になった屋久島など)と、気候の違う東北の森(アシタカたち蝦夷の里、その舞台となった白神山地など)と、人の手が入った里の森(ラストシーン、トトロやぽんぽこの田園風景など)は植生が違うことも。絵で見事に描いているので、知識は無くとも見た目の違いで気づけるとは思いますが、理解をうながすために。
また、子どもにはキツイ戦闘シーンもあります。アシタカの矢で人を殺す場面は衝撃的に描かれ、アシタカ本人は懸命に殺生をこらえようと腕をおさえ「来るな!(来たら殺してしまう)」と叫ぶにもかかわらず、意志に反してタタリは発動し「憎しみに心を奪われるとこうなる、タタリ神になり死してのちも呪いは消えず、他人に憑りつき その者の中にある憎しみの心を引き出してまで暴れる」様子がリアルに描かれます。
一方で、人々の合戦は、往来の戦国ドラマの合戦シーンとは一線を画し、アクションの見せ場ではなく、あえて遠目で俯瞰的に「人々が地面にへばりつくように やーやー騒いでいる」姿を意図的に描いているそうです。自己の利益のために命を奪い合う愚かな姿として批判や揶揄や自戒をこめて。「今回は、誰も飛ばない。ジブリの見所である飛行シーンは無い」と明言し、魔法も無い世界で 地面でのたうちまわりながらぶざまに しかし懸命に生きる人間たちの姿を描いています。(当時のパンフ等参照)
なお、話の流れがわかりにくい人は、この映画の本当のタイトルは、「もののけ姫」でなく、宮﨑監督がつけた「アシタカせっ記」だと知った上で見てください(笑) 漢字変換できませんが、草という字の入る漢字。宮﨑監督の造語ですがせっ記とは「歴史の伝記には残らずとも、草のように名もなき人々によって語り継がれた。子供たちよ、アシタカのように生きよ、と」という意味の言葉です。確かサントラCDにそんな説明がありました。「もののけ姫」は鈴木敏夫氏が、映画の内容よりも商業宣伝重視で、勝手に押し切ってしまったタイトルだと、インタビュー記事など読むとわかります(苦笑)
今回はナウシカと連続で見て、比較視点で楽しめた。
アシタカが「静まれ、静まりたまえ」とタタリ神に敬意をもって呼びかける姿、エボシを狙いタタラ場に襲撃に来たサンに「森へ帰れ、退くも勇気ぞ」と呼びかける姿は、やはり
ナウシカが「怒りで我を忘れてる、静めなきゃ」「ここから先はあなた達の世界じゃないわ」「森へお帰り、大丈夫、飛べるわ」と虫笛で落ち着かせるナウシカの姿に重なる。
「森とタタラ場、双方生きる道は無いのか」「森と人と争わずにすむ道は無いのか、本当にもう止められないのか」「違う、それでは憎しみを増やすだけだ」と常に中立の立場で悩むアシタカは、
人と虫の間で中立に立ち、ペジテとトルメキアの戦争を止めさせようとするナウシカの姿に重なる。
また、アシタカがサンとエボシの直接対決に「双方剣をおさめられよ」「そなたの中には夜叉がいる、この娘の中にもだ」と剣を自らの手で止めて争いを止めさせる姿は、
トルメキア兵に父を殺され怒りに我を忘れたナウシカの剣を 自らの腕を犠牲にして止め、敵の命を守ったユパの姿に重なる。
アシタカの右腕のタタリの呪いは、ジル達「腐海に生きる者の定め」「人はこのまま腐海におびえながらやがて死ぬのを待つしかないのか」に重なるし、その腐海の謎を解くために旅するユパと重なる。
エボシは、クシャナの成長した姿に見える。利己的なクシャナが、辛い体験(売られる)をしたのちに他者への思いやりを学んだ姿だ。
ナウシカ漫画版ラストシーン「生きねば…」は、もののけ姫ポスターの「生きろ。」につながる。
これらの共通点を、ネタの使いまわしだのと誹謗中傷する口コミも見たことがある。しかし、そんな見方しかできぬ人は愚かで悲しいと思う。作家とは、自らの問い続けるテーマを繰り返し描くものだ。
昔も今も、古今東西
(室町の日本であるもののけ姫の時代も、戦争で文明が崩壊した異国のナウシカの未来の時代も。さらには未来少年コナンの時代も)
人間は愚かにも、自己の利益の為に、戦争し、他の命を奪い、人間だけでなく自然界すべてをも破壊してしまう(トルメキアとペジテも、タタラ場も、ジコ坊や侍も…)
しかし、その中でも必ず、くもりなき瞳で、真摯に生きるナウシカやアシタカのような人間はきっといるのだ。例えジコ坊に「バカには勝てん」と笑われても まっすぐに突き進む、志ある者がいるのだと、宮崎駿氏は信じているのだ。祈りをこめて描いているのだ。
私の大好きな場面、シシ神が歩く足元に草花の命が芽吹き、また枯れてゆく場面と、シシ神がふっと微笑んだだけでエボシの銃にみるみる草花が生える場面。
子どもの頃に憧れた童話「緑のゆび」を思い出す。幼い少年チトは、見た目は普通だが ふれたものに草花を生やす不思議な力のある「緑の指」をもっている。その力を生かして、難病で入院する少女のベッドに花を咲かせて少女に笑顔と生きる気力を取り戻し、スラム街を花園に変えて観光料で貧困者の生活を再建し、街に幸せをもたらしてゆく。ある日チトは自分が幸福に裕福に暮らせるのは 父の軍需工場の利益ゆえだと知る。戦争に理不尽と矛盾を感じたチトは、父の作る兵器に種を植え、戦場では砲丸や銃口から花が咲き、ついには戦争を止めさせてしまうのだ。この物語が本当に大好き。最後は「チトの正体は天使でした」という、なんとも西洋の子供だまし的なオチなのがいまひとつだが。もののけ姫のシシ神の場面を見るたびに、この童話を思い出していた。
最近知ったのだが、宮崎駿氏は子供の頃、父の軍需工場の利益で裕福な家に育ち、社会情勢が不穏になった時には自分の家だけが車で逃げることができ、近所の貧しい人達を見捨てて来たのだと罪の意識に苦しんだそうだ。
きっと子どもの頃の宮﨑駿氏も「緑のゆび」を読み、チトに「自分と同じだ」と感じたに違いない。自分に魔法は無いけれど、大人になって作り出す作品の中で「緑のゆび」の魔法を使ってみせたのだ。
ナウシカの汚れた世界を浄化する腐海に。ラピュタの科学力よりも強い生命力の巨木に。トトロのどんぐりがみるみる巨木になる月夜に。もののけのシシ神の生命を生み出す力に。