「傑作」ミレニアム・マンボ cinema2014さんの映画レビュー(感想・評価)
傑作
映画におけるフレームが「世界」の絶対的な境界であったことなど一度もなかったという事実をあらためて突きつける本作が、同時期に、これも同様に4Kレストア版で上映されているタルコフスキーの『ノスタルジア』より軽んじられるなどということは間違ってもあってはならない。
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後半、子分が起こしたトラブルを解決できないままガオが家に帰り着く。半開きのドア。ドアの前にはスー・チーの荷物が散らばっている。誰かの襲撃があったのではないかと疑いながらガオが部屋に入る。酔い潰れてソファに横たわるスー・チー。拳銃を握るガオの手。静かに拳銃をテーブルに置く。この一連のショット、特に拳銃を握る手のショットが素晴らしい。
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始まりは浮遊感のあるスローモーション。
あまりの美しさに心が躍る。
キャメラを振り返りながらステップを踏むスー・チーは、陸橋の階段を跳ねながら降りていき、やがてその姿はフレームから消えていく。
タイトな設えの家の中。
ショットを割らず、キャメラを振って登場人物をフレームに収め、一定の持続したショットがゆるやかに登場人物を追っている。
しかし、このショットが厳密に登場人物を追っているかといえばそのようなことはなく、気がつけば登場人物がフレームから立ち去り、再び帰還しもするだろう。
フレームを意識しない俳優の存在と不在が画面を活気づける。
『工場の出口』が、フレーム内に収まった工場の出口から出てきた労働者や馬車がフレーム外の場所へそれぞれ去っていく様子を、あるいはフレームを横切り通り過ぎていく人々の運動を捉えたものにほかならなかったように、映画はその誕生から、フレーム内の存在と不在、フレームの中に収まる運動とその外にも広がる「世界」が画面を活性化させてきたといって間違いなく、フレームが形作る「構図」に被写体を耽美的かつ静的に配置することで「構図」内に切り詰められた「世界」をそれらしく「表現」してみせようとする作品がおよそつまらないのは、それらのフィルムにフレームの外に広がる「世界」への不信が焼き付いているからにほかならない。
それゆえ、フレームの中に窓やドアの枠を置くことでフレームにフレームを重ねる「台湾の小津安二郎」の『ミレニアム・マンボ』は、画面の窮屈さよりむしろ「世界」の豊かな広がりを獲得していると言っていい。フレーム内フレームの内側からその外へ、さらにその外へと被写体が運動することは映画におけるフレームなど所詮「世界」における偶然の産物に過ぎず、絶対的な境界などではまったくなかった事実をあらためて突きつけるのであった。