ミツバチのささやきのレビュー・感想・評価
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あの世とこの世の境、すぐそこにいる精霊の世界。
「7歳までは神のうち」とは、日本での話と思っていたが、スペインにもあるのだろうか。
スペイン・フランコ政権下での、鄙びた村での話。
スペイン・フランコ政権下と聞いて、『パンズ・ラビリンス』を思い出す。
現実と空想の境界線があいまいな点は同じだが、
『ミツバチのささやき』の方が、より現実に根差している。
(とはいえ、軍部とゲリラの抗争は『パンズ・ラビリンス』の方がはっきりと描かれているが)
なのに、『ミツバチのささやき』の方が豊かなイマジネーションが広がるのは、どういうことだろうか。
フランコ政権下の検閲を逃れるために、メタファーを使っていると聞く。
だからか、ほとんど説明がない。
映像やわずかな台詞・音楽・音響から、鑑賞者が読み取るしかない。
その映像も、素朴な風景画。
わずかな登場人物。
行間ならぬ、映画が醸し出す雰囲気を読み取る・イメージすることを求められる。
”映像詩””絵本のような”という感想も頷ける。
どなたも絶賛されるように、主人公・アナがかわいい。
おしゃまに見える姉・イサベルもよい。
そして、ふりまかれる死のモチーフ。
誰に書いて、投函しているのか、返事の得られない手紙。
どこかに連れて行ってくれる / 連れていかれる / 何かを運んでくる汽車。
生気のない乗客。
映画『フランケンシュタイン』。
「ねえ、どうして少女は殺されたの?怪物は殺されたの?」アナの疑問。
線路での遊び。ねえ、事故るよと、ハラハラと。
毒キノコ。
キノコの宝庫である山に目をやれば、靄がかかり…。『パンズ・ラビリンス』を思い出す私は、靄が煙に見え、メルセデス達が隠れているのではないかと思ってしまう。
学校での勉強。教えてもらっている内容…。「大切な器官」と焦点を当てられる”目”(フランケンシュタインつながりで、”脳”だと思ったのに)。何を見るのか。
井戸の周りでの遊び。余程暇なのだろうと思う反面、いつ、井戸に落ちてしまうのかとハラハラする。井戸もこの世とあの世をつなぐ橋。(ex.『赤ひげ』)
首を絞められる猫。
傷から湧き出てくる血。
西洋絵画には必ずと言っていいほど描かれる骸骨にわざわざ焦点を当てる映像。
反応しない姉。
焚火での遊び。これも危ないよと、ハラハラと。それだけでなく、サンファンの火祭り→メキシコの死者の祭りをも連想させる。日本でも、仏教の修行等の一環として行っているし、世界各国であるようだ(Wikiによると、適切に行われる限り、火傷を負う危険はないようだ)。
負傷した逃亡者。
ちらつくピストル。
銃撃戦。
死体。
こびりついている血。
フランケンシュタインとの邂逅。
あの世とこの世をさまようアナ。
医者・薬。
…。
物語は淡々と、エピソードやシーンはつながりが特にあるわけでもなく、日常を単発的に拾っているように進むのだが、静かな静かな緊張感が持続する。
何かが起こりそうで起こらない。そんな展開に引っ張られる。
その展開をつなぐのがアナ。
この世とあの世に境目にいるかの如く。
”殺される”ことの意味すらよく解らなかったのか。
小屋にいる逃亡者に、なんのためらいもなく、近づくアナ。
逃亡者を精霊=フランケンシュタインに見立てているのなら、映画の少女と同じように「殺される」と怖がってもよいのに。
未知なるものに惹かれていくあの年代。世の中は、善意溢れるもの・キラキラしたものであふれていると思っていたあの頃。
それが…。(食肉とかは屠殺しているだろうから、血が流れているだけで何があったかはアナにもわかるであろう)
しかも、父が…(と誤解)。
初めて、本当の恐怖を感じるアナ…。
それでも、目覚めたアナは、イサベルに教えてもらった呪文で、精霊に呼びかける。
このシーンの、幻想的で美しいこと。
心に残るラスト。
誰に呼びかけているのだろうか。
誰が答えてくれるのだろうか。
蜜蜂。働きづめの一生。働いた報酬は、女王蜂どころか、人間に搾取される。
フランケンシュタイン。”死体”の寄せ集め、しかも脳は犯罪者のもので作った化け物。結局、少女を殺してしまう。
フランコ政権の暗喩としている解説もある。
”あの世”と”この世”は、フランコ政権下での生活と、フランコ政権下以外での生活のことも意味しているのか?
同時代を生きたスペインの観衆には、言葉にしなくとも共感し、それと気づくモチーフだったのだろう。
水辺で出会ったフランケンシュタイン。
無垢なるものとしてのメタファーか、人間が作り出した化け物(≒フランコ政権)として見るかによって、意味づけが変わってくる。
とはいえ、そんな当時のことを知らなくとも、アナの物語としても永久保存版。
”死”というものが、”あの世”がどんなものか、怖れと好奇心で満ち溢れていたあの頃。
ちょっと危険な遊びをして叱られたっけ。
精霊はすぐそばにいて、怖い反面、会いたかった、あの頃。
会えない代わりに、妖精の本とかを夢中で読んだっけ。
そんな日々を思い出させてくれる。
★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★
よくわからないことだらけで、推測で補う映画だが、私にとっての最大の疑問は、イサベル。DVDについていた解説を始めとして、私が読んだ解説は”死体ごっこをしていた”とする。
”死体ごっこをしていた”だけなのか?
実は、あの時、死んでいるのでは?
焚火越えは、死者であるイサベルたちだけが参加できる遊びなので、アナは見ていただけなのでは?
布団でのおしゃべりも、映画を観た日は”会話”していたが、”あの日”以降は、イサベルが一方的にしゃべっているだけで、”会話”にはなっていない。
朝食シーンでも、両親とイサベルの会話はない。
実は、死んで精霊となってそこにいるのでは?
だから、医者は「アナはまだ生きている」と強調したのではないか。
ラストのシーンで、イサベルのベッドが片付けられているのは、そういうことではないのか。
朝食のシーンで、イサベルもカップを抱えていたのは、
しばらくイサベルもベッドで寝ていたのは、
母が、イサベルが死んだことが受け入れられなく、イサベルが生きているようにしていただけなのではと思ってしまった。
そうすると、ラストでアナが呼びかけていたのは、精霊となったイサベル?
この点だけは、監督の解説を聞きたい。
★ ★ ★ ★ ★
(2024.4.5追記)
上記の疑問に対して、いろいろな方が様々なコメントをくださいました。おかげ様で、考察が深められました。レビューサイトの醍醐味と嬉しくなると同時に、皆様に感謝いたします。
その中で、レビュアーのiwaoz様が町山さんの解説をコメントに記載してくださいました。ありがとうございます。
町山さんの解説(監督たちの言葉)、
「姉は、フランコ政権下で生まれて、現状に問題意識の無い若者たち。」
「監督曰く『私はアナ』というセリフは、スペイン国民に対して、希望を捨てずに新しい国を作っていこう、という呼び掛けだったらしいです。」
を頭に置きながら、
”イザベルは死体ごっこをしていた。”→「現状に問題意識の無い若者たち」に見えるが、実は処世術で死んだふりをしているだけ。そしてアナは精霊となった逃亡兵かフランケンシュタインに呼びかけている?
”イザベルは死んで精霊になった。”→「現状に問題意識の無い若者たち」の魂は一度死んだが、「希望を捨てずに新しい国を作ってい」く国民として再び蘇るように呼び掛けている?
と考えると、そこにも監督の強烈なメッセージを感じてしまいます。
焚火を飛び越える遊びも、イザベルが象徴している人々はこういう現状にいるよということなのか…。
下手に表現したら殺されるかもしれない状況の中、検閲に対する目くらましを用いてもなお、それでも発信したいメッセージ。監督のパッションがとても強い映画なのですね。
本当に知れば知るほどという映画だと改めて思いました。
溶け込むような静かな世界
アナがストライクすぎる
最初に観たのは15年以上前。
アートの趣味が合う友人に、「主人公の女の子がむちゃくちゃかわいくて好きだと思う」と、オススメされました。
友人の言う通り、アナがむちゃくちゃかわいいけど、なんて暗いお話…という印象でした。
今回は、すっかりお気に入りの目黒シネマで、劇場上映3日間(短い!)とのことで、スケジュールにねじ込んで観てきました。
ほんとに子供たちが描いたであろうマジックのイラストと共にオープニングが進んでいきます。このイラストから既に、かわいいのに暗いです。
最後までずっと、明度も彩度も低いです。
アナの真っ直ぐすぎる瞳。
今回の二本立てのテーマが"幼いまなざし"それまさに。
時折笑顔を見せるも、真っ黒で大きな瞳で、ただただ真顔で見つめるのですよね。
よーーく物事を見る子で、疑問を問う。そういう年頃ってのもあるのでしょうが、真実を見ようとするキャラクターも好みです。
佇まいも表情もなんて刹那的。当時7歳!(もっと幼く見える)
イサベルの知ったかぶりもいい比較。なんでなんで攻撃されるお姉ちゃんも大変よね。
アナもイサベルも本名だそうです。かわいい。
スペインという土地や、1940年代という時代が、この"哀愁"を感じさせるのでしょうか。
テレサが自転車で走る道は果てしなく見え、広大な荒れた平野の中に幼い2人がポツリ。
拓けた何もない風景の中に、現代都市を脳内で比較してしまいます。
そんな、子供たちの足では遠いやろーー、というところを駆けていくシーンも好き。
ずっと"かわいいなぁ"と語彙力崩壊状態で見ていました。ずっと変な顔してたと思います。
アナとイサベルはもちろん、犬もネコもかわいいです。父親が人嫌いながら、犬の異常なまでの懐き方で、根の人の良さが伺えます。
●かわいいの例
・『フランケンシュタイン』の映画を観ている姿。
・↑観た後、家にキャーキャー飛び込む2人。
・布団でのささやきトーク。
・ネグリジェ姿
・↑で、はしゃぐ2人。
・学校のお揃いの制服とシャツコート。
・アナのポンチョコート。
・父に見つかって無言で逃げるアナ
・・・
そして、
「デン」 リンゴ
もうね、声から何から何までドストライクすぎて、吹き出してしまいました。ここ、大好きで、よく真似してたの思い出しました。
この最高のシーンを忘れていた自分よ。
あー、観にきてよかった。
●その他の感想
象徴的に登場する、ハチの巣模様の窓。どこか牢獄とも重なります。朽ちたアンティークなベッドやピアノも建物も暗い。ドクロの絵といい、"死"の香りがそこかしこに。
母の手紙は訳アリな様子。自分の年齢的に、父母の方に思い入れが出てきてもいいのに、がっつりアナにときめいてばかりで、15年前と成長してません。
フランケンと見合ってるアナは息が白くてほんとに顎がガクガク震えているように見えました。大丈夫ーー?
毒キノコの見分け方をお父さんから学ぶのも印象的。毒キノコ、いい匂いなんですね。全然見分けられる気がしません。
イサベルが猫に執拗に首絞め?子供ってああいうことするよなーって思うけど、それを撮った監督の感覚すごい。
指から血が出ても、派手に騒がないのとか、唇に塗るのもリアル。イサベルが肝座ってるのかもしれませんが、子供ってそゆとこあるある。
アナ=サロメちゃん
エリセ監督の融和への希求が満ちあふれ…
アナ・トレント出演の「カラスの飼育」
を図書館レンタルで観れた勢いで、
36年前にシネヴィヴァン六本木
で鑑賞した以来のDVDでの再鑑賞。
最近はよく理解出来なかったがために
2日連続で鑑賞することもあるが、
今回も多少その要素はあったものの、
それ以上に、名画の世界に再び浸りたい
がための2度の鑑賞になった。
ヴィクトル・エリセ監督は
10年に1作との寡作作家に相応しく、
緻密な構成と美しく且つ繊細な映像で、
子供の生命への興味心エピソードを使って
国民融和への希求を実に見事に描いていた。
内戦で苦しむスペイン国内も、
夫婦愛の冷めた両親の関係
(内戦のしわざと解説にあった)も、
人間が純粋でいられる時には
出来たはずの融和が
何故次第に出来なくなってしまうのか、
永遠のテーマなのかも知れない。
しかし、その中でも、妻が手紙を焼いたり、
眠る夫にショール?をかけてあげたり、
これは2つの勢力の融和を期待したシーン
でもあるのだろうか。
エリセ監督は子供に希望を託している
ようにも見える一方で、
「アナは子供なんだ…少しずつ忘れていく」
とも医者に語らせていて、
対立の克服は難しいとの認識でもあるが、
それでもラストシーンで
アナの頭に浮かんだ姉イサベルの言葉
「お友達なればいつでもお話ができる」は、
内戦に苦しんだスペインの
融和の希望に繋げるべく、
皆がアナのような気持になってもらえたら
との、監督の切なる願いのようにも思えた。
アナとイザベル姉妹の魅力につきる
私は特にロリコンではないが、アナとイザベル姉妹に魅了されてしまった。
アナと逃亡者のシーン、「シベールの日曜日」を思い出した。アナが逃亡者にりんごを与えるシーンがあるが、冒頭で上映されるフランケンシュタインの映画で、少女がフランケンシュタインに花を差し上げるシーンがあり、その後フランケンシュタインが少女を殺してしまうので、アナにも何か悲劇が起きるのではないかと想像してしまったが、それは考えすぎだった。この後の展開は「シベールの日曜日」のほうに近かった。そういえば、私もなぜフランケンシュタインが少女を殺してしまった理由が思い出せない。
いずれにしても、この映画の魅力は天使のようなアナとちょっと大人びたイザベルの姉妹の魅力である。スペイン内乱が背景にあるらしいが、映画を見る限りそれはあまり感じられなかった。
映画とは何かを答える
すごくすごく良かった!(前半10分くらい寝たけど) 難解という評判...
すごくすごく良かった!(前半10分くらい寝たけど)
難解という評判だったけど、全然難しくなかった。
ひたすらにアナが可愛い。目の魅力がすごい。もうずっとヨーシヨシヨシって感じ。人格の芽生えもひたすらに眩しかった!
モヤモヤは感じてるけど、目を逸らして諦めて心を抑圧して、メンタルやばめに病んでるお母さん(届いてるか分からん手紙ばっか書いてる)とイザベラ(虚言、異常なからかい、焚き火を跳ぶ)、
お父さんとアナは正面から受け止めている(しかもお父さんは割と器用に)印象だった。
独裁政権っていうしんどい状況下で、心を閉ざし、感動しなかったり信じないほうが楽だけど(母とイザベラみたいにね)、
心をオープンにし続けているアナがすごく輝いていた。
もう一度見たい!
6歳になる内気なアナ(トレント)は高齢な父フェルナンド(ゴメス)、母テレサ(テレサ・ジンベラ)、姉イサベル(テリュリア)と共に暮らしている。父親は養蜂家でミツバチを研究して書に記しているが・・・
『フランケンシュタイン』(1931)の映画が強烈だったらしく、アナはイサベルに尋ねる。「なぜ怪物は少女を殺したの?なぜ怪物も殺されたの?」と。イサベルはかなり適当に答え、村外れにある無人の小屋で夜になると怪物が現れるのだと教える。さらに怪物は精霊なのだと教え込まれ、親に聞くと、いい人間にはいい精霊が、悪い人間には悪い精霊が・・・などと教えられる。そして、怪物に会うため(?)アナとイサベルは廃墟となった家畜小屋を探検するのだ。
ある日、列車から一人の男が飛び降り、逃げるように家畜小屋に身を隠す。翌日には何度も一人で来るようになっていたアナが彼を見つけ、恐れもせずリンゴを差し出したり、父親のコートをこっそり持っていたりした。しかし、その夜銃声がなり、逃亡者は射殺された。残されていたコートと懐中時計はフェルナンドのもの。警官は彼を呼び、その事実を告げる。家族での食卓、懐中時計のオルゴールがなると、バツの悪そうな顔をするアナ。そしてアナは家を抜け出し捜索隊が出る・・・。無事に見つかったアナ。身体は衰弱していたし、食事もとらないし口もきかないようになってしまった。やさしく見守る両親。ラストシーンではアナが精霊に呼びかける。「わたしよ、アナよ」と。
“死”まつわる純粋な少女の想い。村人たちはクリスチャンであると思われ、死についてもちゃんとした宗教観があるようだし、まだ幼いアナには宗教色もない純粋さで死を考えているようだ。学校での授業、父から受けた毒キノコの説明、死んだフリをするイサベル、そして線路脇での列車を眺める態度など、精霊は信じても、死の存在を受け入れない様子。ましてや逃亡者を全く恐れないのも生命の尊厳を子どもなりに解釈していたと思われる。
牧歌的で絵画的な映像と、台詞も少ないのに感情表現が非常に豊か。さらに、カット割やモンタージュなども絶妙であり、無駄のない構成。ミツバチの生態なども人間社会に置き換えて考えられるし、その研究家である父が人間嫌いであることも象徴的。そして冒頭では母親はスペイン内戦のために生き別れた家族(もしくはかつての恋人か?)に手紙を送っている。届いた手紙を燃やしていたところを見ると、戦死したとの連絡が来ていたのだろうか、今の家族と生き長らえることを幸福の糧とするしかない現実。
こんなに素晴らしい完成度の高い映画を今まで見ていなかったことが悔やまれる・・・
世相の写し絵
これだけ説明のない子供の話も珍しい、観る人によってさまざまな解釈が生まれても不思議ではないでしょう。セリフではなく心象は肉筆を通じた文として語られ、靴音やドアのきしむ擬音が立ち、陰影の多い絵画的描写、映像が淡々と続いてゆく。
感傷的に見れば廃屋でアナが出会ったのはスペイン内戦で出兵し消息不明の実の父、母テレサが手紙を送り続けた前夫と理解した、戦争で引き裂かれた家族の不幸に、帰郷を遂げようとした父に死と言う追い打ちをかけるという残酷な悲話でしょう。おそらくフェルナンドは亡骸を見て察し、テレサには告げたと思います、だからアナを責めず、テレサが手紙を燃やすシーンに至ったのでしょう・・。
ただ、後に映画祭で来日した監督の話では寓話の形を借りたフランコ政権の検閲逃れ、悲嘆にくれる庶民の心情のメタファーとして登場人物が描かれているようだ。死ぬまで安息の無い働き蜂の生態に憐憫の情を示しながらも傍観者的スタンスを取りつづけるフェルナンド、家族を見る目も飼育者に近い。夫婦とは名ばかりに思える描写、幼子をかかえ選択の余地は無かったのだろう、当時のまして異国のスペイン人の心情は知る由もないのだが、蜜蜂も登場人物も内戦後の庶民の実態の象徴だったのかも知れませんね。
キノコにも食用と毒キノコがあるとフェルナンドは子に教える、人もまたそうなのだろう。
フランケンシュタインを持ち出したのは寓話性の為の借景なのだろうが、怪物を創りだしたのも人間、犯罪者の脳が犯す残虐性と未発達な幼児性の同居する怪物は姉には猫の首を絞める衝動、無垢なアナには理解を超えた存在として受け止められる、これもまた世相の写し絵なのだろう。フランケンシュタインも最期は村人に殺されるのだが何故か非業の死を遂げた父とダブって見えたのだがあまりにも不釣り合い、父に描かれなかった何かがあったのだろうか・・。
ミツバチのつぶやき
午前十時の映画祭で、ウン年ぶりにスクリーンで鑑賞。
やっぱり好きだぁ、この作品。
今回は冷えた関係の家族が、再生するお話とも思えた。
また何年か周期で観直したい。
2023.9.10追記
******
初めて見たのは20歳前後、それまでの人生で出会ったことのないタイプの映画だった。説明的なセリフもほとんどなく、あっけなく場面が変わり、わかりやすい盛り上がりもない。正直「よくわからない」映画だった。ただ、わからないけど妙に惹きつけられ、様々なシーンが脳裏に焼き付き、印象は強烈に残った。光と影、寂しい風景、沈んだ色彩などが絵画のようで、物語というよりも画集みたい。しばらくの間、幾度も記憶を反芻していた。
今、久方ぶりに見直し、初見よりも気付く点は多い。スペイン内戦の影響など、当時は知らなかったことも今はわかる。フランコ独裁下で作られたことも。アナの母テレサは誰に手紙を書いていたのか。村はずれの井戸の小屋にいた若者は、どこから逃げてきたのか。暗喩や象徴だらけである。
そして何よりも主人公アナの目があまりにも清らかで、強い。イサベルなんかいくつか違うだけなのに、言うこともやることもすでに女だ〜と思うけど、アナは本当にこども。ほんの数年で過ぎ去ってしまう、まさに限定された時期なのだ。役の名前と実名が同じなのは、撮影時アナが5歳と幼く、混乱させないためだという。
私にとってはこの映画は記念碑的な作品で、今も心の中の一番いい位置にいる。結局、この作品に出会って以降、映画のマイスタンダードになってしまった。
映像詩の傑作
ストーリーは考えず・・・
若い頃、スバル座で鑑賞したがさっぱり、わからず
何故かもう一度観たくなりレンタルして観た
これも「エル・スール」の監督作品で
幼い子の目線で描かれていく
家族の話や
内戦で別れてしまった男性や
脱走兵や
子どもたちの何気ない暮らしの中に
戦争の匂いがただよう作品
この作品も映像での表現が多いので
こちらはありのままを観て感じ
想像して鑑賞した
少女によりそって鑑賞したら
私も少女の中に入り込み
驚いたり
夢見たり
作品の中に入り込んだ
この女の子の瞳がまんまるで、かわいかった
静かな混乱
恐ろしく台詞が少ない。しかも決定的な事件も少ない。だから話が難解になっている。
ポイントは3つ。
「フランケンシュタイン」「ミツバチ」「キノコ」
この3つの場面だけはいろいろ説明しているので、
その説明の文言をヒントに解明するしかない。
時代背景も色濃い。当時のスペインは内戦が終結。
それでも社会は混沌としており、この映画のフェルナンド家族もまた、
そんな社会情勢に翻弄されていた。
窮屈な社会=ミツバチの巣
新たな希望=創造物としてのフランケン
そして、キノコは死をイメージさせる。
台詞欲しいところも多々あった。
父フェルナンドは娘アナを何故に叱らないのか。
フェルナンドと後妻?テレサは一切の会話がないのは何故か。
何とも深い話だが、3回も見直して疲れました。
ヴィジュアル系映画
なんだ、こりゃ?
1940年代、内戦が終戦したばかりのスペインのとある農村が舞台。幼い少女アナが、村を回る映画で「フランケンシュタイン」を観、姉に「フランケンシュタインは死んでない。精霊だから」と教えられ、村はずれの廃墟で負傷した脱走兵に会い、… と起きることだけを羅列すると、こんな映画。
しかしこの映画の真髄は、少女の思い描く心象風景なのだろうから、上記には大した意味はない。
心象風景とは言っても、映画は現実に起きることを撮影してるだけで、ファンタジーではない。フランケンシュタインのくだりだけが、アナの心の中にあるだけの映像か。それでいてこの映画全体を「心象風景」と感じさせるところが、この作品の、この監督の凄いところだろうか。
なんか偉そうに書いたけど、「なんでミツバチのささやきなの?」を筆頭に、ちっともわからなかった俺でした。これからみんなの感想を読んで勉強してきます!
2025/2/23追記
ビクトル・エリセ監督は、題名(西: El espíritu de la colmena、直訳「蜂の巣の精霊」)について以下のように語っていたそうだ。
--- ここから ---
タイトルは私が考えたものではなく、偉大な詩人であり劇作家のモーリス・メーテルリンクにより書かれた、蜂の生活について書かれた最も美しい本と思われる作品から引用した
--- ここまで ---
荒涼とした世界とお友だち
静かで繊細、繰り返し鑑賞することで作品の真髄に近づけるような、そんな映画でした。
難しいことをあれこれ考察できそうな作品ですが、深く考えなくても楽しめると思います。
何より主人公・アナちゃんの可愛らしさがどキャッチーです。お目目がクリクリしてたいへん可愛い!子役にありがちなウソ臭さもなく、素に近い演技も好感が持てました。あんまり笑わないでジッと見つめる表情が感受性の豊かさ表しているようにも思います。アナちゃんの画面支配力はハンパではないですね〜。
傑作として語り継がれている本作ですが、なんだかんだとキャスティングの勝利だと思います。アナちゃんあっての映画です。
また、本作は語り口が渋いです。日常描写が大半を占めており、アナを取り巻く世界がリアルに伝わります。
荒涼として息苦しい村、どこか心がつながっていない両親、早くもスレはじめているイザベル、姉以外に友だちがいなそうなアナ。父親が語るミツバチの労働への見解は、人間の生を全否定するような厭世観に溢れています。あと、冒頭のフランケンシュタインから始まり、イザベルの死人ごっこ等、やたらと死の匂いが漂っているのも印象に残ります。
アナの目に映る世界は、モノクロで重苦しい。ただ、母親とのスキンシップは豊かであり、決して絶望の世界には生きていない。
本作では、フランケンシュタインが重要な役割を果たします。フランケンシュタインとは何か。
アナは初めからフランケンに好感を抱いていました。異形の存在だが、映画のフランケンはどこか優しげ。アナはフランケンの内面に感じるものがあったのでしょう。
アナは友だちが欲しかったのだと思います。息苦しい世界を生きるためには、誰かが必要です。イザベルも死んだふりとかするので、なんかついていけないし。小屋の脱走兵との出会いは、アナにとってとても大切なものだったのでしょう。
そんなアナの心情を想像すると、より切なさが増します。
本作はスペイン内戦とその後のフランコの独裁政権への批判が描かれているとのことです。スペインの近代史を勉強していくとさらに映画を楽しめそうです。象徴を用いて間接的に独裁政権や内戦を批判しているようですし(wiki参照)。内戦時代、舞台となったカスティーリャ地方の様子や立場がわかると、父親の厭世や母親の苦悩、村の事情等をより想像しやすくなりそうです。
全91件中、61~80件目を表示