まぼろしのレビュー・感想・評価
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"I've lost my youth."
自分が自分であるというのはどういうことなんだろう?自分一人でそれは決まらない。かといって、誰と誰を加えたら自分が決まるんだろう?一番近いのは配偶者か?でも自分の配偶者が何をどう思っているか、彼らは彼らの自分を確定するために私を必要としているのかわからない。
確実に死に向かっている。若者だって同じように死に向かっている。でも彼らは違う。死なんて知らないかのように生きている。ライフセーバーの若い男たちも、大学の階段教室に座っている学生達も、海岸に居た全裸のカップルも。
私は泳げるしジムにも通っているしスマートだ。もちろん目元に隈があることも皺があることも知っている。授業をするのも若い学生と話すのも好きだ。ジムに行きたがらない大柄で太っている夫より若いと思う。その夫の重さを私の細い体は25年前から知っている。そうやって私は私であったのに、目の前から夫が消えた。
シャーロット・ランプリングは「愛の嵐」から変わらない。少女のような少年のような体型、肩甲骨も脚も目もまなざしも。ヴァージニア・ウルフの「波」とシンクロしているこの映画、彼女が主役だからこそだと思った。
セックスの最中に笑い出すのはやめてほしい
もっとハチャメチャな展開になるオゾンが好きなのに、これはまともなドラマすぎる。それでもランプリングの自然で深い愛情が見事な演技によって、現実逃避の感覚と虚無感が伝わってくる。
under the sand
腕時計のことは自分が知らなかった夫の事実がまだあったのだということなのだと思う。生きてるかも?ではなくて。まぼろしを見て歩き続けるような終わり方ではあるけれど。
別の男性に体を重ねさせることで、夫の死を受け入れてるということがわかるが、それでも認めたくない。自分を愚かな者として笑ってしまった。頭の理解と心と半分半分。夫の死が受け入れられない女性の話でしかないのだけれど、その描かれ方が細か。
メモのみ
マリーは夫ジャンと結婚して25年。
やっととれたバカンスで、別荘のあるランドへ。彼の望む人気のない海(ライフセーバーの監視外エリア)でマリーが甲羅干しをして居眠りをしている間にジャンは消えてしまう。
バカンスへの道のり、車を運転するのはマリー。ジャンは眠いのか、コーヒーを買う。闊達なマリー。
別荘に着いても、テキパキと部屋を片付けるマリーに対して、ジャンはゆったりとしている。
マリーに火を熾すよう言われて、森へ焚き木を拾いに行くジャン。
倒木を持ち上げると、うごめくアリたち。ジャンの重たい巨体の下で、生き生きと生きるマリーの姿か?
長年連れ添い、安心して慣れ切った夫婦のため、妻にとって男性というものは夫ジャン以外にはない。そのため、ヴァンサンに上に乗られたとき、そのあまりの重みの違いに、つい笑い出してしまう。妻はかれのその重みををも深く愛している。
そもそもイギリスからやってきた彼女には頼れるものは彼しかない。義母が彼女を気に入っていない様子も描かれる。
愛の深さゆえに、彼女はまぼろしを見続けるが、
まぼろし、の僕なりの解釈その1
妻マリーは完全に夫ジャンとの生活しか考えられなくて、満ち足りて愛しているがゆえに、彼が失踪しても彼の死を信じない間はその幻影を見続けるのだけど、ジャンの方は不満は見せないながらも、いささかそんな愛され方が重たくもあっただろう。
それはパリの家から北西に離れたランドの別荘に着いて、火を熾すよう言われて、森に焚き木を拾って来るとき、倒木を持ち上げるとアリたちがうごめいているシーンにも象徴されていて、一つには、妻マリーは巨漢の夫ジャンの重みの下で生き生きと生きているということと、ジャンの方は妻や社会との関係の中で心の表面は固く重くなってしまい、生命力や活力はその下に封じ込められてしまっている、という2人それぞれの状況を暗示しているように思える。
色で言えば、タオルや水着は彼は青で、彼女は赤でした。
失踪後に買うドレスも赤で、ネクタイは青でした。
眼の色も茶系とブルー
2人は結構対称的で
太っている、やせている
物静か、活発
フランス人、イギリス人
由緒正しい家系、よそ者
などという風に特徴づけられていて、
それゆえにお互いがネガのように結びついて、一体をなしているように
少なくとも妻は思っていた。
しかし現実は違っていたと考える方が妥当で
その意味では、妻は最初からまぼろしの中にいた。
現実の幸福がそもそも幻影だったのだから、
最後に彼女が夫を浜辺に見つけるのが、狂気に根ざした幻影だとしても、そもそもの彼女の幸福は何も変わっていない(とはいえ経済的な危機とか、新しい男性との関わりとか、現実的な変化はあるんだけど)といえるのではないか?
「母親だもの」「私は妻ですよ」
映画「まぼろし」(フランソワ・オゾン監督)から。
「あれ、女子トイレのマーク、赤じゃない」なんて、
意味のないことをメモしながら観始めた。(笑)
印象に残っているのは、夫に失踪された妻とその母親の会話。
「ジャンはうつ病で、薬を飲んでいたの」
「知ってましたよ」「どういうこと?」「母親だもの」「私は妻ですよ」
「病気にも気づかずに?」「彼があなたに打ち明けたはずないわ」
「わかってないわね。母と息子の絆を甘くみてる」
「もうやめて、何かご存じなら教えてください」
「私は、信じませんよ。ジャンが自殺したとか、溺死したとか、
真実はもっと残酷。ただ単に、失踪したのよ。人生に飽きたか、
あなたに飽き飽きしたか。新しい人生に出発したのよ」・・
物語と違う部分で、フランス映画らしい精神的な部分の描写が
気になって仕方がなかった。
全体的には、予告編で見つけたフレーズ、
「突然、ひとりぼっちになったらどうします?」
「愛する人を失ったことを考えたこと、ありますか?」が、
この作品のテーマなのかな。
最後の「あなたは、万物になって、私に満ちる。智恵子抄」
これを引用した意味は、ちょっとわからなかった。
愛する人を失ったその後に焦点
海で、突然目の前から消えてしまった夫。事故なのか、自殺なのか、失踪なのか??観ている私たちにも訳が解らず不安になる。こんな別れ方は誰だっていやだ。
シャーロット.ランプリング演じる中年女性の内面だけにスポットを当てて深く鋭くわけ入っていく感じが凄いと思った。最愛の人を突然失う哀しみや苦悩に向きあうことは普遍的なテーマ。彼女が夫の死と向き合うまでのプロセスとして、まぼろしと共存することは現実から逃げるためではなく自分の失われた人間性を取り戻すために不可欠だった気がする。
波打ち際のラストシーンも印象的。何より大人のエロティズム漂うS.ランプリングの美しさ。神経がむきだしになっても、不安と孤独に縛られたマリーが再び涙を流せるまで…彼女の名演が光っていた。
やり場のない喪失感と孤独感
夫が行方不明になったのちに明らかにされる、心の病を抱えた夫の孤独とそれを生前には知り得なかった妻の孤独…。
妻が夫を「失った」のは、はたして何時なのか。夫が行方をくらましてからなのか、夫が妻に全てを打ち明けなくなったとき既に夫を「失って」いたのか…。残された妻には、それを確認する術はない。
『愛していた夫の死という事実を受け止められず、その「まぼろし」を見てしまう』とか、『愛という二人称の関係は、当事者性にのみ、その真実が宿る』とかいう言説は、多分的外れです。
この夫婦は、共に孤独です。しかしその訪れには時間差があります。妻との関係において、妻からの信頼を得られるという自信が持てない夫は、結果的に妻を信頼できず、また妻は、夫の苦しみについて、夫の母親はそれを知っていた一方で自分は夫から知らされていなかったことを、夫の失踪後に、夫の母親を通じて知らされるのです。
残された妻は、「宙ぶらりん」になります。夫との関係が「どの程度」なのか(「どの程度」だったのか)、検証することが出来ないのです。
妻にとっては多くのことが「検証不可能」です。まず、夫が自ら海に消えていったのか、単なる事故なのかが不明です。そして、夫が既に亡くなっているのか、それともどこかで生きているのかも不明です。さらに加えて、これまで一緒に過ごしてきた年月さえも「まぼろし」かもしれない…。そんな疑念が妻に湧いてきます。
夫の抱えていた苦悩も相当だったとは思いますが、物語は、残された妻の側から描かれます。その喪失感と孤独感は、出口のない「やるせなさ」を思わせます。
その悲しみを想像すればこそ、夫の「まぼろし」を追いかけて砂浜をかけていくラストシーンは涙を誘うのです。
それにしても、シャーロット・ランプリングはいくつになっても美しいですね。
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