「レオス・カラックスにとってのla femme fatale としてのカテリーナ・ゴルべワのための映画」ポーラX けろ教授さんの映画レビュー(感想・評価)
レオス・カラックスにとってのla femme fatale としてのカテリーナ・ゴルべワのための映画
初演当時の1999年では未見であったものの、2022年のユーロ・スペースでの「WE MEET LEOS CARAX!」で鑑賞した。鑑賞前はあまり乗り気ではなかったものの、これが思いのほかよかった。レオス・カラックスの映画は、彼の思いが強すぎて、筋があってないがごとくの作品が多いが、これはメルヴェルの原作に基づいているので、カラックスの映画としては物語が一番わかりやすい。
よく「アレックス三部作」はカラックスの自叙伝的映画と言われるが、この『ポーラ X』もやはりカラックスの自叙伝的な映画である。カラックスが、メルヴェルの原作を自分にとって大切な作品であって、映画化するつもりはなかったと言っていることはその証左である。その点で、本作の主人公のピエールは、ジュリエット・ビノッシュと別れた後のカラックスの分身である。すなわち『ポーラ X』は、「アレックス三部作」により「恐るべき子供」(l'enfant terrible)と褒めはやされていた自分が、実際には単なる普通の意味での「困ったちゃん」(l'enfant terrible)だったと自覚する映画であったともいえる。その点で、ピエールの転落のさまは、『ポンヌフの恋人』後のカラックスの落込み具合とも重なり合う。
そんなカラックスを救うのが、本作のヒロインのイザベラを演じるカテリーナ・ゴルべワである。この映画の彼女が魅力的ではないとか、なぜピエールが小汚いイザベラに惹かれたのか分からないという声があるが、とんでもない。イザベラが小汚い難民でなければ、カトリーヌ・ドヌーブの支配する『光の中で』の住民であったピエールにとっての la femme fatale にはなりえなかった。あのイザベラの「小汚さ」のなかにこそ、男を地獄(それとも極楽?)に引きずり込むカテリーナの美しさが映えるのである。仮にジュリエット・ビノッシュが(リシューであればともかく)イザベラを演じていたとしたら、それこそ目も当てられない「喜劇」になってしまう。その点で、この映画はカラックスにとっての「運命の女性」であるカテリーナ・ゴルべワがいて初めて成立した映画であり、ポスト「アレックス3部作」の正統なカレックスの自叙伝的映画である。『汚れた血』と『ポンヌフの恋人』が当時の恋人であったジュリエット・ビノッシュのための映画であるのに対し、『ポーラX』は伴侶となるカテリーナ・ゴルべワのための映画である。違いがあるとすれば、そこだけである。