「すべてが喜劇になる」ぼくの伯父さん 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
すべてが喜劇になる
ジャック・タチの映画はアレゴリカルな資本主義批判という文脈で語られることが多い。実際にその通りではあるんだけど、不随意にアジテートされている感じがしない。つまりフランス映画的な、「才智が勝ちすぎている」感じがない。
たとえば道路を席巻する同型種の車。それは言うまでもなく合理主義が不可避的に辿り着くであろう画一性の暗喩だ。しかしそれ以上にキュートなおかしみが前面に出ている。曲線が基調をなす道路を忙しなく走る車たちは、まるで巣へと向かうモルモットの群れのように見える。
あるいはアルペル氏の邸宅の池に屹立する魚のオブジェ。庭先に噴水なんてブルジョア趣味も甚だしいが、そのつぶらな瞳はどこか憎めない。屋内のスイッチを起動すれば口からチョロチョロと水なんか吐き出すものだから、これではもう嫌うに嫌えない。
オブジェだけではない。『ぼくの伯父さん(mon oncle)』というタイトルも素敵だ。本作ではオートメーションの申し子であるアルペル氏と機械にめっぽう疎いユロ氏の対立構造が描かれており、ここではユロ氏は、豊かなヒューマニズムを備えた旧人類の代表として資本主義に反旗を翻しているといえるだろう。とはいえ血生臭い闘争が繰り広げられることはなく、物語の水準はあくまでイノセントな喜劇に留まり続ける。アルペル氏にはジェラールという息子がおり、彼はまたユロ氏の甥っ子でもある。つまり「ぼくの伯父さん」とはジェラール少年の視点から見たユロ氏のことを指す。アルペル氏とユロ氏の対立にあれこれと政治的・社会的な意味を見出すことはできるが、あくまで本作はジェラール少年の素朴でファニーな感性に基づいて記述されている、ということを『ぼくの伯父さん』というタイトルが示している。したがって説教臭さがない。
中盤から終盤にかけて物語と人物とオブジェクトが一斉に祝祭へと向かっていく高揚感はもうさすがとしか言いようがない。これが『プレイタイム』に繋がっていったのだな。とはいえ『プレイタイム』があまりにも傑作すぎたため、その後で本作を見るとやや見劣りがしなくもないかも。
それでも見終えたあとの多幸感はひとしおだ。もちろんそれは一瞬で立ち消えてしまうことのない、永続的なものだ。
社会や生活の中から面白い箇所だけを恣意的に抜き出すような喜劇は化学反応的な笑い以外の何物ももたらさない。しかしジャック・タチは社会と生活のすべてを、分け隔てなく喜劇の俎上に載せてしまう。だからこそ彼の喜劇はいつまでも心に残り続けるのだと思う。