ブルーベルベット : 映画評論・批評
2020年9月8日更新
1987年5月2日よりロードショー
「デビッド・リンチ的なもの」を確立した怪作。良家の子女は閲覧注意
「ブルーベルベット」が日本で公開されたのは1987年の5月、私が25歳の時でした。年下の女子が言い出しっぺで、友人3〜4名で渋谷のシネマライズに見に行った記憶があります。
冒頭、主人公のジェフリー(カイル・マクラクラン)が草むらで人間の耳を拾うシーンが、この映画を貫く不穏なムードを提示します。「ヤバいヤバい。これは相当変な映画に当たったかも」私たち一行は皆そう思いました。
切られた耳は、誰のものなのか? 何故切られたのか? 好奇心から行動を起こしたジェフリーは、イザベラ・ロッセリーニ演じる歌手ドロシー、そしてその情夫フランク(デニス・ホッパー)との出会いを通じて、舞台となるアメリカの田舎町ランバートンのダークサイドにずぶずぶハマっていきます。
フランクとドロシーの倒錯的な情事は衝撃です。マスクからガスをシューシュー吸入し「俺を見るな!」と叫ぶデニス・ホッパーの怪演は、トラウマ級のレベル。太ったおばさんしかいない売春宿で、ロイ・オービソンを熱唱するオカマのベン(ディーン・ストックウェル)も忘れがたい。隣の席では、映画に誘ってくれた女子が頭を抱えています。
そう、この映画は「良家の子女は見てはいけない案件」なのでした。ベンダースとかジャームッシュとか、バブル時代の単館系ブームで粋がっていた若き女子を待ち受けていたのは、デビッド・リンチという悪夢のようなトラップでした。
映画が終わると、言い出しっぺの女子が「ゴメンね。こんな変な映画だと思わなかったの」。私「いやいや、知らない世界を垣間見せてくれてありがとう。キミが誘ってくれなかったら、デビッド・リンチを一生知らなかったかも」。お礼の言葉に偽りはありません。
2020年9月、久しぶりに本編を見て驚いたことには、「ツイン・ピークス」の原型が、まんまここにありますね。舞台はアメリカのスモールタウン。しかも林業の町で、材木を積んだトラックが頻繁に登場します。街にはダークサイドがあって、怪しい男たちが非合法ビジネスを営んでいる。「草むらの耳」に相当するのは「打ち上げられたローラ・パーマーの死体」。どちらの案件も、捜査するのはカイル・マクラクラン。
デビッド・リンチの作るフィルムノワールは、ダークサイドとブライトサイドのギャップの激しさが特徴です。オンライン辞書に「Lynchian(リンチ的)」なる単語があって、その意味は「不気味さと平凡さのバランスがとれていること」。ポストモダンの作家デビッド・フォスター・ウォレスがもう少し詳しく説明しています。「Lynchianの定義は、非常に不気味なものと非常にありふれたものが、後者の中に前者が永久に封じ込められていることを明らかにするような方法で組み合わされている、ある種の皮肉」だと。
「ブルーベルベット」は、実に分かりやすい「リンチ的な映画」だと言えます。
リンチは、前作の「デューン 砂の惑星」でファイナルカット権を得られず、自らの意図する形で作品を完成できなかった痛恨の経験から、今作では製作費を大幅に下げることと引き換えにファイナルカット権を手中にしました。結果は、大正解。
本作でアカデミー賞監督賞に2度目のノミネートを受け、その後の「ワイルド・アット・ハート」(カンヌ映画祭パルムドール受賞)、「ツイン・ピークス」(エミー賞2部門、ゴールデングローブ賞3部門受賞)へと続く自らの黄金期を築く端緒となったのです。
(駒井尚文)