「1989年製作、思えば遠くへ来たもんだ」ブラック・レイン keebirdzさんの映画レビュー(感想・評価)
1989年製作、思えば遠くへ来たもんだ
今回TOHOの朝一リバイバルで久しぶりに見た。初見は1989年10月末、英国Bristol の少々ショボいCliftonモールの映画館で、上映まで1時間近く続く予告編とTVCM放映、近所の企業の広告を長々と見せられた後だった。
キリの良いラストのお陰か観劇後印象は悪くなかったが、やはりチグハグな展開のような気がして海外では非常に珍しい「日本語(中心)映画」なのに大喜びしなかったような。ただ覚えているシーンの多くは今回の観劇でも出色の箇所だった。
・松田優作のトレードマークと成り得た無表情→サイコ顔の鮮やかな怪演
・マイケルとアンディの妙に気持ちの良い刑事コンビ
・ガッツさん「英語分かんねーんだよ!」、内田裕也、神山繁「You’re civilians here!」、力也さんらの物凄い緊張感あるかつ滑らかな演技(みな普段の邦画よりカッコよかった)
・若山富三郎の、要求された演技をちゃんと引き出す役者魂、健さんもこれに同じ
でもやっぱり、当時批評で言われていたように健さんの英語はイマイチっぽく聞こえたし(神山・刑事部長は上手かった)、若山・親分が俄かに「Black rain〜」言い出すのは随分と唐突に感じた(声はアテレコかしらん英語完璧だった)。
最後の山場の農園や屋内調度も「どここれ、これが日本?」と反応してしまったし(撮影地韓国)、あり得ない数のデコトラと自転車とか違和感だった。当時日本でもヒットはしたが、松田優作を惜しむ声以外あまり評価は高くなかったと聞いた。
しかし!三十数年を経た今この「ニューヨーク・大阪ロケ敢行のアクションクライム・異文化バディ映画」を見たら、
これひょっとして物凄い傑作じゃないですか!!
こんな意欲的なNY→大阪下町での主要キャストロケなんて今でもなかなかちゃんとは出来ませんよ。ラストのアクション銃撃シーンが日本で撮れなかった(製作陣は西日本で撮りたかったらしい)のは当時として無理もない。上述した過剰な日本風景設定も、今時を経て見ればあれくらい異文化強調した方が異国での場面状況が分かりやすいし、サイコな犯人集団が跋扈するクライム世界観に入りやすい。
すみません、既に海外に居ながら自分のアタマの中が開国していなかった若い私には、映画のなかの「本当の日本と違うところ」探しに心が向いてしまい心ならずも先ずアラ探ししながら観劇していたようです。今なら(私に限らず)「外国人監督が日本で娯楽作を作って視点が異なる、極端になるのは寧ろ当然。その上での映像、演出の面白さ、共有・共感できる点を楽しもう」という風に見られるでしょう。そうするとこの映画はかなり良く出来ています。
健さんの英語も、寧ろブレイク直後のケン・ワタナビの「インセプション」などよりも滑舌の抑えどころが分かっている(小生恥ずかしながら英語が仕事ゆえ、上から偉そうに言います)。
そして松田優作は、単独カットでは切れ味の良い悪役をちゃーんと押し出しし、マイケルとの絡みでは半歩抑えて主役を一層引き立てている(ラスト・サムライで真田広之はカッコ良さを出し過ぎたかトムに?出演カット秒を削られたらしい)。
若山富三郎親分の「黒い雨」セリフシーンも、改めて聞いたら言わんとする理屈展開(旧古の日本→近代戦争→ヤンキーの物量と技術の暴力、空襲、原爆でコテンパン→放射能と西洋価値観の『黒い雨』を浴び、戦後の新世代日本人は歪んで育った)は比較的無理がなく感じた。これらを米国人のリドリー・スコットと製作陣が構想して日本人俳優に語らせ、1989年に一国際犯罪映画として纏めたのは多分に偉業ではないだろうか。
浮かれた極論かもしれないが、今本作を(ほぼ)このまま改編して80年代日本が主舞台の新作映画として全国や国際ストリーミングに出してもそれなり現代人の鑑賞に堪えるのではないかとさえ思ってしまったほどです。
文化的誤解や理解の限界さえお互い一般化し、怯まずテーマを伝え合おうとするようになってきた今の日本(と米国の日本コンテンツ好き層)なら、今や本作程度の“変な”日本など全く気にならず、寧ろ本作品・監督の言いたい見せたい点により注目できるでしょう。
そして松田優作… 当時も映画公開を追うように英国まで伝わってきた訃報は現地の日本人仲間皆に衝撃だったけど、今もその早逝を惜しむとしか言葉がない。第二脇役として抑制もする演技ではなく、ハリウッド名監督作品の主役か準主役として思いっきりキレた演技を魅せて欲しかった。
とまれ、良い作品の良い劇場再上映でした。ありがとう。