「黒い雨」ブラック・レイン とみいじょんさんの映画レビュー(感想・評価)
黒い雨
唐突に、黒い雨の話を菅井が語りだす。
原爆炸裂後に降ったあの黒い雨のことである。映画のタイトルも、この黒い雨のことらしい。
この映画が作成された年代にUSAサイドの製作陣がよくこの話を知っていたなと思う。しかも、かなり唐突に筋だけ追えば、必然ではない話を、菅井に語らせ、タイトルにまでしてしまう。
かなりの思い入れがあったのか?説明として使いたかったのか?思いつきなのか?
(『ゴジラ』が生まれたきっかけとかから興味をもったのか?酸性雨とか世紀末?)
想いは図り知らぬが、黒い雨を知っていて、かつかなり重要そうに語らせるだけでも、唸ってしまう。
その、黒い雨以降の新人類が佐藤。
映画の主筋は、ニックの再生物語。
すさんだ刑事だったニックが、いろいろあって、高潔な松本に感化されて…。松本もニックに感化されて…。
結末を二通り用意して、採用された方は…というほど、この二人の軸が中心になっている。
ならば、敵方は佐藤のグループだけでいいと思うのに、旧式のザ・ヤクザというべき菅井達と、佐藤達の攻防も出てくる。
その旧式と、新人類を分けるものとして出てくるのが”黒い雨”。日本の戦前と戦後の違い。それをUSAの製作陣が、若山氏が演じる菅井に語らせる。
はっきりとした意図はなかったのかもしれない。
ここを大きく取り上げたいのは、私の中の”日本人”なのかもしれない。
でも、あれやこれや、意味づけを考えてしまう。
(単なるSF要素で使っているなら腹立つが・・・)
細かく見ていくと、
ダグラス氏のなめ切った表情・チャーリーを目の前でなぶり殺しにされる時の様子・反省した時の様子・クライマックスで佐藤を殺せるかもというものを発見した時の逡巡とか、多彩。やさぐれている中にも心の底に眠る”善”を匂わせる。
ガルシア氏の、チャーリーがニックの本当の姿を信じている優しさ・陽気さを見せてくれ、その人懐っこさで転回点を作るキーマンとしての存在感。”好い奴”と皆が思わねば、後半に説得力がなくなる。
高倉氏の、松本の真摯な誠実さをとつとつと示した演技。ニックがその説教を受け入れるほどの、松本の人生を醸し出さなければ、説得力がなくなる。不器用なだけでは、人は説得されない。
神山氏は定番。警察のお偉いさんといったらこの方。流ちょうな英語もさすが。
石松氏は、馬鹿にされやすいが、元WBC世界ライト級チャンピオン。実は、すでにワールドワイドな方。プロボクサーとしては、USAでも知られた方だったのかしら?唯一無二の存在感。佐藤とは別の意味で、眼が彼を追ってしまう。
内田氏は、最近の”ロックンローラー”なお姿を探すと、見逃してしまう。
若山氏はその迫力にひれ伏してしまう。同じやくざもんでも、半端な佐藤と違う、大組織を束ねる風格を示す。菅井の前だと、狂気の佐藤が焦って駄々っ子している思春期男児に見えてくる。尤もやくざの世界だから、器の違いなんて暴力の前にはなんの意味もなくてと言うところも、危ない、危ない。
と、それぞれ、ご自身の魅力を演じきっている。
だのに、鑑賞後は、佐藤のイメージしか残らない。
ビジュアル的には、こんな髪型していたっけ?とか、こんなに黒のトレンチコートを美しく着こなしていらしたのね、と改めて驚く程度なのに、
あの、冒頭のダイナーの「あ”?」の振り向きざま。戦慄第一弾。
あの、日本到着時。
あの、チャーリーを殺す場面。 なんて、残忍な。なのに、舞を舞うように美しく。それでいて臨場感が半端ない。チャーリーが、ニックの唯一残った友として、気さくな良い奴だから、余計に胸が引き裂かれる。
あの、菅井達との会合の場。
あの、バイクチェイスからの乱闘。
雰囲気、間、眼、声の出し方、あの笑い方…。
触るだけで切れそうな、蛇のような、人を小馬鹿にしたような、どこか姑息なチンピラのような下卑た表情も織り交ぜながら、計算高く抜け目なく、ただひたすら己の力を信じ、欲丸出しで突き進む佐藤。圧倒的な迫力。クールなのに、クールだけじゃない下卑た小物感も匂わせる。なのに目が離せなくなる。
”異端”なヒール。だが、孤高の存在ではなく、佐藤を慕う部下もいる不思議さ。
何故、こんな人間になった?なんてことすら考えたくもなくなるほどのヒール。
場の空気を、映画の出来を一変させる役者。こんな人がいるんだ。
すざまじい…。
オーディションで、、松田氏の演技を見たときに、監督もダグラス氏も、この映画の成功を確信したというが、さもありなん。
コネリー監督で、デ・ニーロ氏との共演がオファーされていたというが、観たかったなぁ。
正直言って、この映画だけが松田氏の代表作とは思わない。他にも、永遠に記憶に残る作品は山ほどある。
そんな役者だから、この人にもつい、タラればを言いたくなる。
治療よりも、演技することを選んだ男と語られる。
でも、1980年代でなく、今だったら、どのような選択をされたのだろうか。
今なら、ステージⅣとかの手の施しようのない状態でなければ、治療して仕事に復帰できる。私の周りにもたくさんいる。
今なら、訃報が届いたサニー千葉(千葉真一)氏らがハリウッドで実績を積んで、この映画があって、2003年には『ラストサムライ』があって、アカデミー賞にノミネートされるくらいに、日本人がハリウッド映画に出ることは夢物語ではなくなった。
ひょっとしたら、松田氏も、次のチャンスを待って、まずは治療をされたのではないだろうか。
でも、1980年代は違った。
癌と宣告されることは死の宣告をされることとほぼ同意義。ショックを受けて自死される方もあとを絶たなかったから、基本インフォームドコンセントは家族のみだった時代。治療したとしても、闘病記さながら、ベッドの中で苦しみながら…。それでも、延命が期待されるような程度。
ハリウッド進出も、まだ、『ラストサムライ』どころか、この映画も企画中…。次のチャンスなんていつのことか…。
奥様が女優で、奥様のお姉さま夫妻も演劇人だったから、意志を通せたのかな?
渾身の役者たちが揃った映画。
この役者にキャストしたことに賛辞を贈りたい。
Wikiでみた、最初にオファーした役者が演じていたら、どんな映画になっていたのだろう?
ジャッキー・チェン氏の佐藤は新境地が開けたかもしれないが、
小林桂樹氏の菅井…。小林氏も名優だけどさ。
シーン・シーンも語り継がれる要素はある。
初見では、特に後半棚田の場面、あの亀の忍者でも出てくるんじゃ?えっランボー?もひょっとして出てくる?なんて思い、興ざめしたが、ロケを全部日本でできなかったのは、日本側の問題だと知って、日本がこの映画に傷をつけたのかとがっかり…。
そうやって見ると、善戦しているなあと見方が変わり(笑)。
とはいえ、全体を通してみるとすっきりいかない。
なぜ日本を舞台に?USA舞台で、佐藤を暴れされても良かったんじゃないかと思う。
けれど、松本の律義さ(性善説人間)と人生捨ててるニック(人を信じられない)の対比とか、
日本警察のような日本的チームワークとニックのような暴れ馬との対比や、
菅井が代表するイタリアンマフィア的日本やくざ(しきたりとか順列重んじる)と佐藤のようななんでもありのニュー勢力の抗争とか、
いろんなことを、いつもの舞台以外で描きたかったのかしら?
今一つ、すっきり腑に落ちないので☆4つ。
(物語☆3
役者☆10
映像☆2:好みでない
アクション☆5)
「エイリアン」「ブレードランナー」「ハンニバル」さして「ブラック・レイン」が、リドリー・スコット監督で今更ながら(というかあまりに無知で)感動してます、という常態なので申し訳ありません!
とみいじょんさん、そうなんです、歴史物の監督?と思ったのは「ナポレオン」「グラディエーター」と(見てませんが)「最後の血糖裁判」の印象だけです。昔は監督が誰かなどあまり気にしてませんでした
とみいじょんさん、コメントありがとうございます。リドリー・スコット監督は歴史物の人?と何もわからず思ってましたが、この映画を見て見方が変わりました!