「誤訳を補えば氷解するテーマ 〜「精神の生活」とは〜」バートン・フィンク ソドム対ゴジラさんの映画レビュー(感想・評価)
誤訳を補えば氷解するテーマ 〜「精神の生活」とは〜
大傑作なのは確かなのですが、本作は大変難解なイメージがあり、あまり世間で面白がられていないのが残念です。
実は簡単に読み解けるヒントがあります。
それは劇中の「精神の生命を見せてやる!」セリフです。
日本語吹替えでは「人の心の中を見せてやる!」になっています。
実はこれは翻訳が間違っていて、”The Life of The Mind"は、『精神の生命』と訳すのでなく『精神の生活』と訳します。
そして『精神の生活』は、哲学者ハンナ・アーレントの最後の著作のことです。
ハンナ・アーレントは、有名な思想家で哲学者。ドイツ系ユダヤ人であるアーレントは、ナチの台頭でフランスへ亡命。更にナチの手が及んで来るとアメリカへ亡命しました。
終戦後、ナチの将校だったアイヒマンの裁判を傍聴し、彼は命令に従っただけの平凡な男だと評して、話題を呼びました(別の映画にもなりましたね)。
そんな彼女の著作で最も有名なのは、「全体主義の起源」で、平たく言うと、『全体主義(ファシズム)は、大衆という存在無くして成り立たない』という内容。
そして、大衆が全体主義に陥らない指針として書かれたのが『精神の生活』です。
“大衆”とは自由に"思考"することなく、自らの"意志"も持たず、自ずから"判断"することもしない人間達のことです。物事を能く考えない馬鹿者共が耳触りの良いプロバガンダに乗せられ、自己に責任が無いのを良いことに、隣人や家族を売ってしまう。それが正に“大衆”で、彼らこそ大粛清や民族浄化の張本人なんですね(最近Netflixの『三体』冒頭でも描かれていましたね)。
それが全体主義の根幹を成すファクターです。
つまり、“大衆”にならない為には、"思考"、"意志"、"判断"という健全な『精神の生活』が必要なんですね。
さて、これを踏まえて「バートン・フィンク」に話を戻します。
チャーリーというキャラクターが、「精神の生活を見せてやる!」と叫んで突進し、刑事二人を殺します。
で、トドメを刺す際に「ハイル・ヒトラー」と言います。
このチャーリーというキャラクターは、たまたまバートンと隣室になった保険のセールスマンでなんですが、彼はショットガンで人を撃ち殺して、首を切り落としトロフィーにするという、サイコキラーです。そして劇中の様々な描写から、主人公の別人格(あるいは分身?)であることがわかります。
こいつが、追って来たドイツ系とイタリア系の刑事二人を殺しますが二人の名前がそれぞれドイチ(『ドイツ語』という意味のドイツ語)、マストリオノッティ(よく分かりませんがイタリアの名前)という、ドイツ系とイタリア系の警察官です。これはナチスとファシストのメタファーで、この刑事二人が凄く嫌な人物として描かれているのはそれ故です。
撃ち殺した後の「ハイル・ヒトラー」は皮肉ですね。
これらから、本作が全体主義を打ち砕きたいという大いなるテーマに裏打ちされた作品であることがわかります。
コーエン兄弟の弟の方、イーサンはプリンストン大学で哲学を学んでいるので、ユダヤ人哲学者のアーレントのことを無視すると思えませんし、学んだはずです。
また、この点を踏まえるとコーエン兄弟の作品には、まさに「自由に"思考"することなく、自らの"意志"も持たず、自ずから"判断"することもしない人間達」が善良な顔をしたまま悪を為す物語が多くありますね(『ファーゴ』など!)。
「精神の生命(The Life of The Mind)」は、本作のカットされた冒頭のバーのシーンで、西海岸行きを快く思わないバートンが文句を言う所で、
"Just does'nt seem to me that Los Angeles is the place to lead the life of the mind.(ロサンゼルスは精神の生命に導いてくれる場所だとは思えないんだ)"
という台詞で語られます。
舞台となる1941年から約10年後には、まさにそのロサンゼルスはハリウッドでも、レッドパージ(赤狩り)と称して全体主義的に粉を弾圧する風潮が流行ります。
映画の世界にも、どこの世界にも、愚かな人々が流れに身を任せて大悪を為してしまうことはあるものですね。
そんな普遍的な悪と、それを打ち倒そうという善が交錯するというテーマが、コーエン兄弟作品の要です。
(哲学のみならず旧約聖書のモチーフでもっとその辺りをよく描いていますが)
それが分かっていると本作も、他のコーエン兄弟作品も、とても読み解きやすくなりますので、是非ご念頭に置いてご鑑賞いただければと願います。