ニュー・シネマ・パラダイスのレビュー・感想・評価
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一気にあふれかえる郷愁と、そこにたどりつくまでの時間の流れに震える。
○作品全体
定番名作映画の一つ、というスタンスで見始めたけれど、猛烈に良かった。名作映画といえど当然自身に刺さるものと刺さらないものがある。『ニューシネマパラダイス』は猛烈に刺さった。
一番刺さった要素は時間の扱い方と郷愁に対する感情の扱い方だった。
物語前半、約2時間あるうちのちょうど1時間分は旧映画館でのトトとアルフレッドの出会いの物語だ。シーンの大半を映写室に使うことになるが、ここで強調されるのは時間の滞留。トトは家族、学校、映画館とさまざまなコミュニティがあり、目まぐるしく走り回っているがアルフレッドにあるのは映写室と映写の仕事だけで、映写して神父からカット部分を指示されることを繰り返している。トトとアルフレッド、二人の対比的な存在が、多くの時間を費やしている映写室の時間の滞留を強調する。
アルフレッドの存在自体も「滞留」そのもの。自身が望んで映写技師をしているわけではなく自分しかいなかったというネガティブな成り立ちや、子供がいないこと、そして初等教育をキチンと受けていないこと等、アルフレッドの人生に進展がなく、留まった存在であるという要素を多く持っている。映写技師という仕事自体も、同じ映画を何十回も回しては巻き戻す。これも滞留を演出する一つだ。
ただ、この時期のトトからすれば映写室での出来事は真新しさの塊だ。だからこそ将来的に濃い思い出として郷愁の一ページに残るのだが、それは未来のトトにとっては「あのときの映写室」に滞留することを表す。それを端的に、そして辛辣に言葉にすると、「郷愁に騙されるな。ここにはなにもない」というアルフレッドのセリフになるのだろう。
停滞の無力さを映写室で長く過ごしてきたアルフレッドは身を持って実感している。だからこそ出てきた言葉であり、この言葉に説得力が生まれるのは前半1時間を映写室という滞留の時間に注いだからこそ。この時間の使い方が後半の物語に効いてくる。
物語後半は滞留した空間から長く離れていたトトに、長く離れていた分だけの郷愁が凝縮されてやってくる。その凝縮の密度は、上述した前半1時間分の密度だ。トトと同様、村の人々やジャン・カルロ村自体の変貌を浴びせられる感覚。自分自身が一気に年をとったような感覚がして震えた。
そしてなにより、郷愁を一気に浴びさせられたのはアルフレッドからの最後の贈り物だ。
あの切り取られたキスシーンフィルムは、単なるキスシーンを切って貼り合わせたフィルムではない。トトにとってはアルフレッドと神父が居て、それを覗き見する幼きトトがいたあの日を、まるでその場に戻ったかのように思い返すことのできる郷愁が凝縮されたフィルムでもあり、幼い頃見ることができなった未知なるフィルムだ。このフィルムからアルフレッドの「どうかあの日を覚えていてほしい」という郷愁を望む感情と、未だ未知なる世界に進み続けることを望む「郷愁に騙されるな」というアルフレッドの感情…そのアンビバレントな感情が勢いよく溢れ続けているように感じて、息を呑んだ。トトの涙はこうしたアルフレッドのメッセージをフィルムから受け取ったからではないか、と思う。
あの日の時間を思い返しながら揺蕩っていたトトを一気にあの日へ戻す物語後半の時間の緩急が
本当に素晴らしかった。
映画自体もいろんな映像を切って貼って作られるもの。ただ、その繋げ方や、その映画自体に寄り添う思い出によって映画は一人ひとりに違う感情を与えてくれたり、思い出させてくれる。
『ニュー・シネマ・パラダイス』。自分にとってたくさんある知らない名作の一つから、映画が好きな理由を明白にさせてくれるとても大事な作品になった。
○カメラワーク
・なんといっても母との再会のシーン。トトの帰宅に気づいた母が編み物をそのままに玄関へ急ぐ。どんどんとほつれていく毛糸、そしてそれが止まる。そのままカメラを窓へ向けて、タクシーが去っていくのを見せたあとに、二人が抱き合う姿を見せる。二人は会えたのだろう、と思えるモチーフを手前に据えて、再会のカットを演出する。
俳優の渾身の芝居へカメラを向けるだけ…というカメラワークも良いけれど、表情を映さずに二人の再会の万感の思いを演出するこのカットこそ、映像演出だと思うし、映画だと思う。
○その他
・アルフレッドの葬儀で神父と話をするときに、あんなに立派になって…とつぶやく神父が猛烈に良い。これは「でもぜひ(気安く声をかけて良い)というのなら、トト」と、話したあとのセリフなんだけど、最後に「トト」と呼ぶのを大切そうにつぶやいて上述のセリフに繋がるのが、最高に良い。映画館の思い出がトトやアルフレッドだけではない、というのがこのつぶやき方ですべて理解したような気持ちにさせてくれる。
正直このシーンが一番泣ける。
今まで実写映画のソフトを買ったことがないのだけど、完全版が見たいから買う予定。あぁ、良い映画に出会えたな・・・。
映画愛と郷愁の情感溢れるイタリア映画の名作
20世紀も終わろうとしていた時代に、シチリア出身の若きジュゼッペ・トルナトーレ監督が脚本を兼ねて制作した、映画愛と郷愁の情感溢れるイタリア映画。時代背景は第二次世界大戦後間もないシチリアの小さな街で、娯楽の無い生活苦の中で老若男女問わず唯一の楽しみが映画を観ることだった。主役はフランスの名優フィリップ・ノワレの演じるアルフレードと撮影当時8歳のサルバトーレ・カシオ少年が演じたトト。この二人が演じる映写技師と見習い少年の師弟関係が、実の親子のように描かれるイタリア人情劇のクラシックに、題名になる映画館シネマ・パラダイスそのものがもうひとつの主役になっています。この32歳の監督トルナトーレが産まれる10年前の同郷の人たちを懐かしむ視線には、多くの古いイタリア映画を楽しみ学び、リスペクトしているのが分かります。陽気で明るく欲望に正直で情熱的な人たちに変なおじさんまでいると、フェデリコ・フェリーニやピエル・パオロ・パゾリーニの映画タッチを思い出してしまいます。そして映画を観て、泣き、笑い、時に怒り、興奮し、感動するイタリア人の飾らない姿をみて、映画館には国境がないことに気付くのです。映画の素晴らしさと、その虜になった一人の少年のほろ苦い人生を描いた名作でした。
ジャック・ぺランの演じる映画監督として大成した中年期のトトこと、サルヴァトーレ・ディ・ヴィータがアルフレードの訃報を受けて40年前を回想する導入部は、古典的な映画話法です。先ず司祭が管理していた映画館ではひとり最初に試写をして、アメリカ映画やフランス映画は勿論、自国のイタリア映画まで検閲して、男女のキスシーンや女性の肌の露出があるフィルム部分をカットするエピソードが面白く、時代をよく表しています。司祭が鐘を鳴らしアルフレードが巻き付けられたリールのフィルムに紙を挟む。作品はジャン・ルノワールの「どん底」(1936年)で、ジャン・ギャバンとルイ・ジューべの名優二人のゴーリキー原作の文芸映画。貧しい人たちの暗い話でも男の友情物語が熱いルノワール監督の救済の映画、これを最初に持ってきたトルナトーレの映画愛がいい。続いてジョン・フォードの「駅馬車」(1939年)の予告編からレジスタンス活動のニュース映画で時局を表し、ルキノ・ヴィスコンティ監督のネオレアリズモ映画「揺れる大地」(1948年)とサイレントの「チャップリンの拳闘」(1915年)の二本立ての上映会。「揺れる大地」はシチリア島を舞台にした貧しい漁民一家の物語で、本土のイタリア人では理解しにくい方言の台詞で現地の人が出演した厳格なるドキュメンタリー的リアリズム。イタリアには貧富の差の南北問題があり、他のイタリア映画で数多く扱われています。その劇中で印象深いのは、大してお金にならない大量のイワシをきつい塩漬けにするところ。そんな網元に搾取される漁民の貧しさを子供から大人まで真剣に観ているのに、若い男女のラブシーンになるとキスシーンが飛んでしまいブーイングが館内に響きます。映画の楽しみ方は人それぞれですが、チャップリンで館内笑いが止まらないのは世界共通でした。ここまで、ルノワール、フォード、ヴィスコンティ、チャップリンと如何にこのトルナトーレ監督の映画愛が正統派であるかが分かります。映画館の二階席が特権階級専用に隔離されているのも、この時代の特徴として面白可笑しく描くトルナトーレのコメディタッチで楽しめます。
トトは映画好きの悪戯っ子でアルフレードと口喧嘩が絶えないですが、子供のいないアルフレードは優しく接してくれて、いい相談相手になってくれる。しかも、夫がロシアに出兵して戦争が終わっても音信不通で心配が続く母マリアは、2人の子供を抱え生活に追われ、問題を起こすトトに八つ当たりしている様で切なく、次第にアルフレードが父親代わりになる流れは自然です。トトの友だちペッピーノの家族が新天地を求めドイツに渡るエピソードでは、アルフレードが「越境者」(1950年・未見)と同じと語ります。これは「鉄道員」のピエトロ・ジェルミ監督の出世作となったネオレアリズモ映画で、シチリア島で職を失った坑夫たちがフランスに不法移民する物語でした。アルフレードが教育を受けず10歳から映写技師になった半生を振り返り、トトに故郷シチリアを離れろとしつこく言い聞かせるのは、故郷を舞台にした映画や色んな外国映画を観てきたアルフレードなりの想いでした。そして、ニュース映画を観ていたトトがロシア戦域軍に関する国防省発表の悲報を知って、削除しようとするシーンが泣かせます。これは、ビットリオ・デ・シーカ監督の「ひまわり」で描かれたと同じく、長い間行方不明としてきた国防省の不手際もあったのでしょう。役所から出てくる母とトトのカットで繋いで、役人の遺族年金の説明の台詞を重ねる基本的な映画表現がいい。気丈に振る舞ってきた母マリアが抑えきれず泣くのを見詰める、トトの無邪気な顔を捉えたカット。おしゃべり好きなイタリア人が言葉を発しない、映画ならではの表現でこの母子の心が伝わります。
この映画のラストの怒涛のクライマックスに匹敵する名シーンが、当時の喜劇スターが主演する人気作品に押し寄せる観客が広場にはじき出されて、アルフレードが機転を利かせて取った野外上映の場面です。フリッツ・ラングの「激怒」(1936年・未見)のスペンサー・トレイシーの台詞“群衆は愚かになる。何も見えない”と言いながら、映写室の小窓にあるガラスを調節して、広場の向かいにある白い家の壁に映し出されてスクリーンが現れる。何て映画愛に溢れた素晴らしいシーンでしょう。アブラカダブラ、(動け写真)、音楽が鳴りゆっくり画面が流れるように移動して収まる。このシーンだけでトルナトーレ監督が大好きになってしまいます。しかし、禍福は糾える縄の如しで、昔の硝酸セルロースのフィルムは燃えやすく、自然発火もありました。妹のベットの下に仕舞ってあったトトのフィルムが燃えてしまう伏線があって、唐突感を感じさせません。燃える映写室の壁にある、バスター・キートンとエリッヒ・フォン・シュトロハイムのポスター。サイレント映画時代のこの巨匠ふたりを選んだのは、全盛期が短く早くに忘れられてしまったことへのトルナトーレ監督の映画愛に思えてきます。この火災事故により失明してしまったアルフレードですが、命の恩人となったトトとの関係は更に深いものになっていきます。
焼け落ちたシネマ・パラダイスを前に絶望の底に落とされるアデルフィオ神父と村人たち。でも捨てる神あれば拾う神ありで事業に成功したスパッカフィーコが新しい支配人になって、新館完成のパーティが開かれる。この雰囲気の何という幸福感でしょう。新しい時代を迎え映画も変わっていく。上映作品はシルヴァーナ・マンガーノ出演の「アンナ」(1951年・未見)。見習い修道尼のマンガーノが恋人ラフ・ヴァローネと情夫ヴィットリオ・ガスマンの間をよろめく三角関係のドラマ。ガスマンがマンガーノの背中にキスをして観客がどよめき、2人のキスで拍手喝采となる。アデルフィオ神父がポルノ映画と怒るのも無理もありません。見所はマンガーノが過去にキャバレーで扇情的に踊っていたシーンで、『El Negro Zumbon/騒めく黒人男性』の曲はアメリカでも大流行したと言います。歌と踊りとエロスは、平和の象徴でもある映画の世界。そこに現れるアルフレードがトトの顔を撫でると青年役のマルコ・レオナルディ(17歳)が現れる。トトが年頃になって上映されるのがロジェ・ヴァディム監督のカラー映画「素直な悪女」(1956年)で、全裸で横たわるブリジット・バルドーの美しい肢体が男たちを魅了する。如何にもイタリア映画らしい率直な表現の可笑しさ。この時期可燃性だったフィルムが安全なフィルムに替わり、アルフレードがもっと早く開発されていればと悔やむシーンを挟み、トトは8ミリ撮影に夢中になって、偶然に運命の人エレナに出会う。映写室で8ミリ上映するトトの様子から、何が映っているか気付いて、恋の指南役になるアルフレードは、まるで映画を語るようにトトにある昔話を教えます。眼が不自由になったアルフレードは、脳裏に焼き付いた映像を思い浮かべていたのでしょう。その結末を語らないのがいい。ここで紹介される「Catene/絆・Chains」(1949年)のエピソードもまた面白く感動的でした。この映画はイタリア人の8人に1人にあたる600万人が観たメロドラマの大ヒット作の様です。二つの映画館をフィルム缶が何度も往復して上映するほど観客に求められ、イタリア人の琴線に触れるお涙頂戴映画。子供たちはつまらなそうでも、大人たちは涙が止まらず真剣に見入り、アルフレードも妻から解説を聴きながら観ています。可笑しいのは、もう何度も観て全ての台詞を覚えたオジサンが登場人物が言う前に話しながら涙を流すところ。そしてトトがアルフレードから聴いたアプローチを実際に真似てエレナの家の前に何日も通い、100日目の大晦日の夜、反応が無く諦めて家路につくシーンの花火の美しさが、よりトトの落胆を印象付けます。そこから紆余曲折あって、夏の熱さから臨時に野外で上映される一本が、カーク・ダグラス主演マリオ・カメリーニ監督の「ユリシーズ」(1954年)。雷雨の中パレルモ大学から帰って来たエレナが突然トトに覆い被さるサプライズシーンも、余りにも映画的です。しかし、エレナの両親の反対があってか、2人は結ばれず、故郷を去りローマに行くことになる別れのシーン。ありふれて同じようなシーンをいくらでも観ているのに、こんなところにも映画の良さがあると実感してしまいました。
30年振りに故郷に帰り、アルフレードの棺と共に教会に向かう途中の広場で、想いでのニュー・シネマ・パラダイスが朽ち果てた姿を見る辛さ、主人公でなくとも胸が詰まる思いに掻き立てられてしまいます。映画館と共に懐かしい人たち。スパッカフィーコ支配人の言葉、“テレビにビデオ、映画は過去の遺物です”が更に胸を締めつけます。それは今振り返ると、この時代の1980年代に古い映画が終わり、映画の形が変わったことを意味しています。実際映画は今も私たちに新しい映画を提供していますが、映画以外の娯楽が増え、その中の一つになってしまいました。皆が見守る中で壊されるニュー・シネマ・パラダイス。
アルフレードの妻から預かった遺品の一缶のフィルムを持ってローマに帰ったトトが、試写室でひとり観るラストシーン。それはシネマ・パラダイスでカットされたキスシーンをまとめて編集したトトの為の特別版でした。キスのワンカットで走馬灯のようにその映画が蘇る興奮と懐かしさ。トトが微笑みながら感無量になるのを見て、観客は全ての作品を知らなくても感情移入してしまいます。それは映画をこよなく愛する人なら分る、この共鳴性こそ映画の素晴らしさだからです。映画を好きでいて本当に良かったと思わせてくれる名ラストシーン。
そして、イタリア映画界を支えたエンニオ・モリコーネの音楽が、この名作を更に感動的にしたことは間違いありません。ニーノ・ロータ、カルロ・ルスティケッリと名匠の多いイタリア映画の作曲家の中で長きに渡り、数多く手掛けた巨人でした。鑑賞した作品では「荒野の用心棒」「夕陽のガンマン」などのマカロニウエスタン、「シシリアン」「殺人捜査」「わが青春のフロレンス」「死刑台のメロディ」「アラビアンナイト」などが印象に残ります。好きで選ぶと、この作品と「わが青春のフロレンス」「死刑台のメロディ」勝利への讃歌の三作品です。
私は、アルフレードを求めていた
社会は日々変化し、人はその中で生活をしている。文化は社会や生活から生まれ、それらは共に作用し合いながら変化していく。文化の一つである映画は、その時間の社会や生活、そして文化を、文字通り色濃く映し出し、表現されている。それは映画の中で描かれているものから、その映画が作られるに至った経緯や、それに求められていたもの、その頃の流行までもを感じ取ることができる、一種のタイムカプセルのようなものである言える。全く同じ映画でも別の時代の人が見ると、違った見方や感想を持つだろう。それを顕著に感じたのが「ニュー・シネマ・パラダイス」である。
主人公のトトは、幼い頃から小さな映画館の映写室に入り浸り邪魔をしていたが、段々と仕事を覚えていき、映写技師のアルフレードを手伝うようになる。そんなトトが、様々な人たちとふれあいながら、成長していくストーリーである。
この映画の主題は「何かを得るためには。何かを手放さなければならない。」何かを選び、何かを捨てる決断の連続が、人生を形作っていく。」というものである。そしてその痛みと、尊さを鮮明に映し出している。トトは劇中で様々なものを選び、捨てた。その際たるものが故郷である。そして共に時を過ごした、アルフレード、母、妹をおいて、ローマへ渡ったことによって、トトの夢であった、そしてアルフレードの夢であった映画監督への道がひらけた。失う痛みがあるからこそ人は成長し、それが人生の輪郭を形作る。しかし現実世界の人生において、そこまでのものを手放せることは稀であり、そこまでしなくても、人はなんとなく生き続けることができる。様々な点において安定した現代社会においては、輪郭がぼやけたまま時間だけが流れて、何も終わらず、何も始まらない。
そして、トトにそうまでさせたのがアルフレードだ。アルフレードは青年になったトトに「街を出ていけ。2度と帰ってくるな。」と言い、突き放した。アルフレードにとっても、トトが自分の元から離れるのは、きっと寂しかったに違いない。しかし、もう二度と会えなくなるとしても、トトに夢を追わせ叶えさせるために、気持ちを押し殺してトトを突き放した親心には感銘を受けた。感銘を受けたのは私自身が、アルフレードを求めたいたからだと思う。こんな人はなかなかいないだろう。
現代では「失う」ことはあっても、「捨てる」という決断は失われている。「捨てる」と「失う」は似て非なるものであり、一方は能動的であり、他方は受動的である。自ら能動的に動き、決断することが極端に減った。その理由は様々考えられるが、どのみち大きな成長を遂げるには、妨げになることは間違い無いだろう。
と、トトが街を出るところまで話を進めてしまったが、少し戻す。トトは街を出る前に、一人の女性に恋をする。エレナである。二人は長い時間をかけお互いのことを知り、恋人となったが、ある日突然エレナがトトの前から姿を消した。そして、もう二度と、エレナはトトの前に姿を現すことはなかった。私がこの映画で最も評価している点である。現代ではSNSやメール、電話などでいつでも連絡を取ることができる。またインターネットを使えば、最近の動向を調べることだってできる。そういったことが当たり前の文化で生きてきた私にとっては、二度と会うことがなかった二人を思うと、なんと儚く、美しいのだろうと思う。現代では失われてしまった、情緒的なシーンの一つである。
そして、アルフレードの死によって、トトは街へと帰る。街の人々は年老い、トトは「知っている人は誰もいなくなった。」と言った。アルフレードの死と共に、映画館も解体され、一つの時代の終わりを象徴的に描く。30年という月日が流れたことによって、様々なものが変化していた。しかし、一番変化していたのはトト自身だ。街を出る時には、汽車で長い時間をかけて移動していたが、帰ってくる時は乗り慣れた飛行機で30分で帰ってきた。これはトトが日常的に飛行機に乗ることができるほどに大きく変化し、成長したことを現すシーンの一つと言える。
この映画は、決してハッピーエンドではないかもしれないが、人生を描くにはとても美しい。人が人らしく生きている姿への敬意や、尊厳、憧れといったものを抱いた。現代では、様々な意味で繋がっていることが当たり前になりすぎた結果、実際の繋がりが減った。そして、架空の繋がりが強くなりすぎている。繋がりの「軽薄さ」や「多量さ」に対して違和感を感じ、うんざりする。そして架空の繋がりは「別れ」と「喪失」を体験する機会を極端に減らした。曖昧な別れが身近になり、本当の別れと旅立ちは、失われてしまった。
この映画で私の心が揺さぶられるのは、「もう会えない」という断絶が本物だからである。アルフレードは「二度と帰ってくるな」と言い、そしてもう戻っても彼はそこにはいない。私にとってこの映画は、アルフレードと出会うためのものだった。
貧しくも活き活きと描かれた少年のすがた
映画館で映画を楽しめるという事
映画館で映画を観るのが好き
監督の作家性が溢れ出ている
・2時間版を鑑賞。3時間版も鑑賞して違いを知りたい!
・劇場爆破が「海の上のピアニスト」を思い出し、一層切なくなる。トルナトーレ監督の物語には究極に不幸な登場人物が出てこない(むしろ素敵な仲間や恋人、家族に恵まれ美しい風景の中で暮らしている)。しかし、観客の胸を絞めつけ感傷的にさせるという作家性の持ち主だ。
・アルフレードの「この地は邪悪だ」「ここにいると自分が世界の中心だと感じる」「帰ってくるな」「郷愁に惑わされるな」などのトトへのセリフが沁みる。狭い映写室から映像上の世界を見続けてきたアルフレード。トトには自分の足で外に飛び出し自分の目で広い世界を見てほしいと、息子同然の愛弟子を断腸の思いで手放してしまう。駅での別れのシーンでは、皆が最後までトトを目で追うのに、アルフレードだけが目を背ける。
ここで「サライ」が脳内再生されるのは私だけ?「遠い夢すて切れずに 故郷をすてた 穏やかな春の陽射しが ゆれる小さな駅舎」♪インターネットは無く電話も交通手段も不充分な時代。当時は夢を追って出るか、夢を諦め残るかの2択しか無いんだよな…。
ところが神父さんが遅れてやって来て「間に合わなかった」とおとぼけをすることにより、切ないシーンに少し笑いが生まれる。トルナトーレ監督作品って、全体を通じての美しさの中に、小粋さが盛りだくさん!センスの塊で、本当に大好きな監督だ!!
・最後の切断したキスシーンの総集
映画には検閲や映倫などの逆風が常にある。映画産業の衰退という荒波にも負けるなというアルフレードからのメッセージ。また、お母さんの「本当に愛してくれる女性と落ち着いてほしい」という言葉にもつながってくる。これ以上のラストってあるだろうか?ああ、本当にすごいセンスとしか言えない…。
「人生は映画のようにはいかない」
映写室で来る日も来る日もフィルムを回し続ける職人。それは彼が望んだ人生ではなかったのかもしれない。何度も何度も同じ映画を掛ける。台詞を覚えて俳優に話しかけるほどに。自嘲気味に話す職人は、映画に取り憑かれ、映画を観に来る人を楽しませることを喜びにする。
映画に取り憑かれた少年。来る日も来る日も映画館に通い、フィルムを観ただけで台詞が出るまでになる。機転が利き、賢い彼は、小学5年で職人に弟子入りする。
小さな顔で、映写室の小窓からスクリーンと館内の様子を見る。映写技師の特権だ。
悲しい出来事を経て、少年は、職人の後を継ぐ。
やがて少年は成長して青年になり、恋をする。光を失った職人は、彼に語りかける。映画の台詞で。一度実った恋は、職人の予言通りに儚く散る。
そして職人は青年に自分の言葉で語りかける。
「人生は映画のようにはいかない」「この村を出ろ」「戻ってくるな」と。
映画で繋がった絆。職人は、青年の非凡な才能に気づいた。だから、立ち止まるな、と背中を押した。ずっと側に置いておきたい、息子のような弟子を。
映画が唯一と言っていいほどの娯楽だった時代。タバコをふかし、居眠りをし、授乳し、あんなことまでしながら皆で観た映画。
田舎の村から世界を知り、愛を、笑いを、悲しみを、怒りを皆と共有する空間、映画館。
身を立て、成功した青年は壮年になって職人の死を知る。
故郷に戻った彼の部屋には、映画の思い出が、母の手で大切に残されていた。
しかし、映画館は・・・。
職人が弟子に残したフィルム。
それは、職人と弟子にしかわからない、最高のプレゼントだった。映画への愛、そして弟子への愛が詰まっていた。
職人は、故郷の村で、誇らしかったに違いない。映画の世界で成功した弟子のことが。
そして、自分の仕事に誇りを持っていたに違いない。どんなに素晴らしい映画も、腕のいい映写技師がいないと、ちゃんと鑑賞できないのだ。職人も現場で映画を作っていた一人なのだ。観客の前で最後の仕上げをしていたのだ。
フィルムは燃えなくなった。そして、フィルムはデジタル信号に置き換えられた。
映写機は回さなくて良くなった。
街から小さな映画館が消えた。
それでも、映画を観に行く。人生は映画のようにはいかない。わかっている。でも、映画を観ている瞬間は、その世界に浸りたい。
あの曲がかかると、もう何度も観たこの映画を思い出す。たぶんこれからもずっと思い出すだろう。
大きな愛の詰まった、最高の映画。
あれ以上のフィナーレはないわ
過去に、レンタルで観ました💿
これほど映画愛に溢れた映画が他にあるでしょうか❓
やんちゃな少年だったトトがやがて大人になり、かつて親交のあったアルフレッドの訃報が届いたことから、故郷に戻ってくるストーリー。
トトの母親が息子に電話すると毎回違う女性が出ることに気づいていながら、知らないフリをする場面や、何よりアルフレッドがトトに遺したフィルムの内容など、見どころも多数あります🙂
エンリオ・モリコーネが手掛けた音楽も、これ以上ないほど作品にマッチしており、映画好きなら一度は見ていただきたい一本ですね😀
故郷との関係を断つ必要性はあったのか
父親代わりのアルフレードが、サルヴァトーレに村を出て故郷との関係を断つよう勧めたのも、彼女と別れた方がいいと考えたのも、全てはサルヴァトーレの仕事における成功を真剣に考えてのことだという意図は分かる。しかし、そこまで徹底しなければいけない理由についての説明が不足していて、説得力に欠ける。故郷の人々との関係の継続と、仕事における成功は両立できるものだろう。また、本気の熱愛に発展する恋人を見つけるのは珍しいだろうし、実際サルヴァトーレも彼女のことを想い続けていた。そのような相手との関係を断ってまで仕事に打ち込むことは、人生の充実感の喪失につながり、幸せから遠のくと思う。それでも故郷とのつながりを断った方がいいと思わせるような、説得力のある説明が聞きたかった。
しかし、全体的には温かみのある良い映画だった。狭い映画館でみんなでワイワイと映画を観るのは気が散りそうだと思った。だが、それが細かいことを気にしない、社会全体の他者への寛容さや距離の近さの表れであって、今作全体の温かさに寄与しているように感じた。
「自分のすることを愛せ」
何度見ても心を揺さぶられるのは、トトに自分を重ね合わせてしまうからだろうか。映画を観ながら、来し方行く末を思い巡らせてしまう。
トトが帰ったと、ほつれる毛糸を引きずりながら外へと駆け出す母。夫を待ち続け息子を待ち続けた母、この作品で最も美しいシーン。トトが大切にしていた物が丁寧に保管された一室。都会で疲れた息子がいつ帰ってきても良いように、そして再び送り出せるようにと用意していたんだと思う。
久しぶりの帰郷でうける喪失感、疎外感、年老いた親を目にしたときの罪悪感。同時に自分が如何に愛されていたかを知る喜び、気恥ずかしさ、後ろめたさ。8ミリフイルムで蘇るかつて本気で愛した人の記憶。非日常となった故郷での時間は、様々な感情と思考をともなってトトの冷めきった心を蘇らせていっただろう。
そしてアルフレードの形見のフイルム。これは彼が旅立ちの日にトトに伝えた「自分のすることを愛せ。幼い時にあの映写室を愛したように」という言葉を形で表したものだ。失われていたトトの心の最後のワンピース、粋で心のこもったプレゼント。
…
私が最も好きな映画の音楽は、今も昔もアルフレードのフイルムとともに流れるこの曲です。マエストロに心から感謝
映画好きならこの映画は觀ておかないと。 映画好きならこの映画が好き...
エレナはどうなった?
シチリアの小さな村を舞台に映写技師と映画好きな少年の交流を描いた1989年公開のイタリア、フランスの合作。
ローマで成功をおさめたサルヴァトーレのもとに、アルフレードが亡くなったと母親から連絡が有った。少年時代の彼はトトと呼ばれていて、多くの時間をニューシネマパラダイスで映写技師のアルフレードと過ごしていた。映画に魅せられたサルヴァトーレはその後島を離れローマに行き30年間実家に帰ることはなかった。そのサルヴァトーレの少年時代から青年期を経て熟年となるまでの人生を描いた話。
キスシーンが御法度だった戦時中、戦後もしばらくはダメだったのだろうという事がわかる。そして、トト少年はそのキスシーンに興味深々だったのがよくわかった。
アルフレードが火事の影響で目が見えなくなってから、トトが映写技師を引き受けるのだが、青年期に恋したエレナはどうなったのだろう?
親に反対されて連絡も取れなくなった、ということなのかな?
その後サルヴァトーレは、仕事は成功したのかもしれないが、誰も愛さず結婚もせず、という生活を送り、エレナの事が忘れられない、という事なのだろう。
チャップリンの映像、キスシーンを集めた映像など、なかなか見所が多かった。
郷愁
色褪せない名作
私のナンバーワン映画
幼いころに父母や年上の人の言動から影響を受け、その後の人格の形成や将来の生き方を左右するに至るほどの強い感情や悟りを得ることがある。そういう貴重な経験は年齢を重ねてもずっと覚えているもので、良し悪しにつけその人の財産である。
シチリア島の片田舎に住む小学生のトトは感受性が豊かで、戦争に赴いて帰ってこない夫を待つ母と小さな妹との3人の貧しい生活を送っている。トトは無類の映画好きで、村に唯一ある映画館に行くことが楽しみで小遣いを貯めては頻繁に映画館に足を運んでいた。映画館には近所に住むアルフレッドというおじさんが映写技師として働いていた。映画好きなトトは邪魔だから来るなというアルフレッドを上手くあしらいながら映写室に忍び込んでは交流を重ね、次第に仲良しになっていく。幼かったトトは少年から青年と成長するなかで映画を通してアルフレッドから.人生とは何かを学んでいく。トトが独り立ちを決心して故郷シチリアから離れる際にもう帰ってくるな、ただお前が成功したといううわさを聞きたいと告げてアルフレッドは突き放す。年月が経ち映画監督として成功者となったトトのもとにアルフレッドの訃報が届く。
私が20歳代の遠い昔の頃、きっちりとスーツを着込み、仕事中に飛び込んだ新宿の映画館。
良い映画とは知っていたが、観る機会がなくリバイバル上映の際、時間つぶしのつもりで・・・。
始まりから涙・・。嗚咽が漏れ、最初は恥ずかしかったが、号泣しても全く気にならなくなり、見終わった後は泣きすぎて頭が痛いくらい。
映画全体が感傷と郷愁、映画への愛情が描かれていてノスタルジーでいっぱい。私事ではあるが自分を可愛がってくれた叔父とだぶり、また号泣。
アルフレッドとトトの絆と数々の会話、別離の場面でトトを見送るアルフレッドの言葉と態度、成功者として帰省し、葬式で交わした昔の知人らとトト、そして最高に有名なラストのシーン。全てに涙。・・・そう、完璧なラストシーンと涙を誘うBGM。
作曲家のエンニオ・モリコーネは残念だが昨年逝去してしまったが2004年に来日した東京フォーラムで彼が指揮したコンサートへは行くことができたのは幸運。この映画のテーマ曲の演奏ではまたまた涙が・・・。私のナンバーワンの映画です。
年齢を重ねた村人達の表情がステキでした
名作と言われる本作品。「泣ける映画」という世間のイメージに何となく圧倒されてしまい、これまで観たことがありませんでした。もったいないことをしました笑
今回映画館でリバイバル上映されると知り、今更ながらですが鑑賞してきました。
あらすじはレビューでもあちこちでのウェブサイトでも紹介されているとおりですが、個人的には、主人公のサルバトーレ(トト少年)が村を出て映画監督となり、30年たって帰ってきた時、取り壊し目前の映画館「パラダイス座」前に集まった村人たちの年齢を重ねた姿・表情がとてもステキで印象に残りました(登場人物が年齢を重ねてゆく様子を描いた作品は他に色々あると思いますが、その表情やたたずまいの移ろいを味わい深く描いた作品は、自分にはちょっと他に思い当たるものがありません)。因みに作品中では、登場人物たちの子供時代、青年期、壮年期、老年期と、違う俳優さんが演じている場合もあれば、一人の俳優さんが演じている場合もありますが、どちらの場合も素晴らしかったです。異なる俳優さん演じている場合としては何といっても3人の俳優さんが少年時代から壮年期までを演じた主人公サルバトーレですが、30年経って村に帰ってきた表情には少年トトをふと思い出させるような表情があって、一人の人物を異なる俳優さんが演じつないでいることに感動しました。
特に私個人としては、トトの母親役が素晴らしく感じました。戦争未亡人となって懸命にトトを育てている若い時代、村に帰ってきた息子を優しく迎える年老いた時代、それぞれを2人の女優さんが演じていましたが、どちらも味があって素晴らしかったです。
作品中で、夫の帰りを待っていたトトの母親が、夫が還らない人となったことを知って悲しむ場面があります。そういえば、戦争の時代にはどんなに待っても戦地から帰らず、二度と会えなくなってしまった家族が沢山いたんだな…と思い、ハッとしました(作品レビューは書いていませんが、「ラーゲリより愛を込めて」もそういうストーリーでした)。今の平和な時代なら、例えば自分なら、会いたい人に会おうと思えば、本人の連絡先さえ分かれば電話とかメールだってできるし、会いに行く。もちろん、戦地のように連絡先が分からなければ待つしかないけれども、苦しくても最後に会えるなら、トトの母親のように、会える日を信じて10年でも20年でもずっと待ち続ける、その気持ちは分かります。どんなに待っても、会えれば、待った時間の苦しみは全て一瞬で吹き飛ぶはずです。•••でも、戦争の時代は待っても待っても会えないことがあったわけなので、胸が痛みました。今の時代に生きていることにもっと感謝しないといけないな、と思いました。今も世界では紛争が絶えませんが、これからも、戦争にまつわる悲しみや寂しさを味わう人が出来るだけ生まれないことを祈る気持ちです。
たまたまこのところ、戦争にまつわる映画を3本続けて観たからか、たくましく懸命に生きるトトの母親の姿を見ながら、そんなことが心に浮かびました。
戦争未亡人のトトの母親に話題が少々偏りましたが、本作品は、俳優さんたちの素晴らしい演技のおかげで、年齢を重ねることの味わい深さを感じる作品でした。また自分自身が年齢を重ねて5年後、10年後に観てみたら、どんな風に感じるのか楽しみです。
何故か見逃していた名作シリーズ
はい!
まさかまさかの超今更ながらの2024年4月19日に鑑賞です笑
星10個🌟はあると思います
名作名作名作名作名作ってみんな言うし 必ずそういうランキングで絶対に入って来る作品でいつか見ようと思いつつ20年くらい経ってしまいついに鑑賞となりました!
今更ながら名作と言われるのが納得の内容でした😵
これは不滅の名作って言われるわな😭
音楽と映像と構成と特に後半が完璧過ぎです!
ラスト付近は無限号泣モードに突入しましたよ(ずーっと泣く映画って中々無いと思います)
極め付けで最後のフィルムのシーンは本当にヤバいです😭これは逆に若い頃に見てたら面白いと思ったのか俺は?と思いました(年齢じゃなくて映画好きか違うのかで違いが出るのかも)
感動させる手法が初めて体験過ぎて 久しぶりに戻った地元の人達の老いた姿で泣かせるとか(別にあの場面は泣かないよ普通って人が大半なのかも)あの思い出の映画館が取り壊しになるって部分で泣かせるとか感動の手口が自分には斬新過ぎてずーっと感動してました!
今更の鑑賞ですがマイオールタイムベスト10に普通に入ってくるくらいの名名名名名名名名作ですね。
これは劇場で観れる機会があれば絶対に行きたいです!
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