「令和6年9月28日 新文芸坐「倒錯するカルト映画の世界」にて鑑賞④」ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド モアイさんの映画レビュー(感想・評価)
令和6年9月28日 新文芸坐「倒錯するカルト映画の世界」にて鑑賞④
令和6年9月28日 新文芸坐「倒錯するカルト映画の世界」の4本目。
この企画の上映作品は4作品。
「イレイザーヘッド」(77年)
「マルチプル・マニアックス」(70年)
「リキッド・スカイ」(82年)
「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」(68年)
時間はもう午前四時をまわっていた。この日、池袋の新文芸坐へ集まった我々観客たちの長い夜ももうすぐ明けようとしているのだ。
途中、一つ席を空けた隣に座る白髪の背広姿の男性が革靴を脱いだ際に、一日かけて熟成された彼の足の臭いが私の鼻腔を突いたり、空腹に堪えかねたらしい観客が煎餅を齧る音が上映中の劇場に静かに響いたりと、どうしたものかと逡巡する幾つかの場面があったものの、おおよそ楽しい夜であったのです。
そしてそんな長い一夜の最後にこの作品を持ってくる劇場側のセンスに心から敬意を表したい思いなのでした。
この晩、劇場の物販では本作の復刻パンフレットが販売されていたわけですが、まぁそのパンフレットを手にしている人の多いこと多いこと。私も昔は劇場で観た作品は、そのデキに拘わらず記念にパンフレットを買っていたのですが、自分の場合ロクに読まずにタンスの肥やしにしてしまう事を経験から学んでいましたので今回も購入は見送りました。しかし開演前や上映作品間の休憩時間で場内が明るくなるたびに至る所で本作のパンフレットに目を落としている人がいるのです。
またパンフレットの他に本作のTシャツも販売されていたのですが、お客さんの中には劇場で販売していた物とは違うデザインの本作のTシャツを着ている人が居るのです。それも一人や二人ではありません。かなりの数の人が何時何処で入手したのか知れないリビングデッドTシャツを着ているではありませんか!明らかに今夜ここに集まった人たちの大半は本作目当てで来ている事が分かるのです。(ただ一番印象に残ったのは「不思議惑星キン・ザ・ザ」(86年)のTシャツを着ている人が居た事なのですが…)
何故に1968年に公開された映画が今もなおこれ程人々の心を掴んでいるのでしょうか?しかも当時日本では公開されなかったような超低予算映画がです。いや、こんなすっ呆けた言い方はよしましょう。そんなの当たり前なのです。この作品は確かに面白いのですから。
今夜これまで観てきた3作品はいずれも確かに私の興味を惹く強い個性を放ってはいたのですが、しかし1本の作品の完成度としては至る所に“難”があるのもまた確かなのです。個人的には1点突破の荒々しい映画も好きなのですが、それを果たして他人に勧められるのか?というとやはり躊躇してしまいます。しかしこの「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」は娯楽作品としての完成度もしっかりしており、胸を張って他人にお勧めできる1本だと思うのです。その事は今回の鑑賞でもやはり再確認させられました。
後に数多のフォロアーを生み出すゾンビ映画の元祖ではありますが、“ゾンビ”というモチーフ自体に観客が何かしらテーマ性を感じてしまう作りには本作はまだなっていない気がします。ゾンビの本作での存在はあくまで登場人物たちを極限状態の窮地へ追い込む舞台装置程度のものだと感じます。しかしそうして未曽有の事態に陥った登場人物達が見せる不安や緊張、焦燥や疲弊、そして対立の様子は日本に暮らす我々にだって身に覚えのある事なのです。
例えば新型コロナウィルス感染拡大騒動の初めの頃など、多くの人は週末だろうが大型連休だろうが自粛ムードに煽られてジッと自宅で息を潜めて外の様子を伺っていた事でしょう、そのくせ自粛を要請していた連中が今度は『GoToトラベル』だとかいう危機的状況の旅行業界への救済政策を始めだした事に様々な思いを胸に去来させていたわけです。
さらにマスクは有効か無効か?ワクチンは打つべきか否か?イソジンが効くとか効かないとか!?アクリルパネルは意味あるのか?いや飲食店に置いてあるアレは流石に意味ないだろ!?と、誰も答えなど知りようもない状況の中で日々錯綜する報道を注視し、更新され続ける感染者・死亡者数に戦々恐々とし、いつまでも感染者数0人を記録し続ける岩手県の事が逆に心配になったりしていたはずなのです。
そして多くの人が感染拡大防止、早期終息を願ってはいたものの、それに向けての意見や方針は対立し、そしてその対立は国政レベルだけでなくもっと身近な会社の同僚間、ご近所間、友人間、果ては家族間でさえも起こっていたのです。
基本的に日本人は面と向かって議論をする性質ではないので表立ってはいなかったでしょうが、誰だってあの当時は身近な誰かしらに対して『よくこのご時世にあんな振る舞いができるな』と非難がましい感情を抱いた覚えがあるのではないでしょうか?そしてそれらの記憶を生々しく想起させる場面の数々がこの映画には確かに描かれているのです。
新型コロナウィルス感染拡大でなくても噴火や台風や地震や原発メルトダウン等々、災害大国に暮らす我々がこれまでに幾度も感じてきた、あの先行きの見えない状況に対する不安や緊張、焦燥や疲弊と対立。その一端と重なる描写が「生ける屍が生者の血肉を求めて徘徊する」なんてなんとも荒唐無稽なこのお話の中に確かに存在するのです。
本来ならこの作品からは、本作が制作された当時のアメリカで起こっていたアフリカ系アメリカ人の公民権運動に対する何かしらのメッセージを感じる方がより正確なのでしょう。しかし日本に暮らす私としてはやはり、極限状態に追い込まれた登場人物達が見せる様々な感情に自身も感じた事のあるそれを重ねて映画に夢中になってしまうのです。
そしてこの映画の物語は片田舎の一軒家とその周辺数メートル以内で起こった、たった一夜の出来事なのです。しかし物語は常に張り詰めた緊張感を維持して観客をその一部始終に夢中にさせてくれます。
1968年公開の映画といえば「2001年宇宙の旅」や「猿の惑星」があるわけですが、それらに比べるとこの映画の製作費はおそろしく低予算です。にもかかわらずこの映画はその低予算振りもスケールの小ささも全く気にならず、それらの超大作に対して面白さで引けを取る事はまったくないのです。優れた脚本と演出があれば映画はちゃんと面白くなることをこの作品が証明しているのです。
さらにこのおそろしく低予算で作られた本作は、その製作費のウン百倍もの興収を稼ぎ出したのです。この映画以降ホラー映画というジャンルは低予算で作って大ヒットさせてこそ“本物”という風潮が出来たような気もしなくはないのです。
どちらにしろこの映画は今に続くゾンビ映画の元祖としてだけではなく、ロクに製作費をもらえない駆け出し映画監督達に成功へのヒントを示した映画だったのではないか?と思えてしまう程、その存在自体が何かとても格好いいのです―。
初めての名画座で初めてのオールナイト上映を無事に完走し、白んだ薄ら寒い池袋の街を駅に向って歩く足取りはゾンビさながらにフラ付いていましたが、とても充実した映画体験だったのです。
あれ、送信したコメントが行ってない。このソフト時々可怪しいですね。
6ケ月に渡るレビューお疲れさまでした。名画座のオールナイト、それも濃いプログラムに行かれましたね。また、名画座にも行ってください。
ご無沙汰してます。
池袋で4本連続のオールナイト上映ですか。
1968年のカルト的ゾンビ映画。
昨日の投稿なんですね。
エッセイ・文化批評としてとても面白く
読みました。
年度変わりましたね。
まだ道端には残雪が残っています。
共感ありがとうございます。
レビューいくつか拝見し、自分が今まで気づかなかったような視点に唸らされることも多く、フォローさせて頂きたく、よろしくお願いします。
ゾンビは、確かに災害や伝染病のメタファーとしても捉えることができますね!
自分はその点に今まで気づきませんでしたが、言われてみればおっしゃる通りです!
あの一軒家に閉じ込められた人たちの不安や対立は、災害や伝染病に怯える人たちと確かに重なります!