デルス・ウザーラのレビュー・感想・評価
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虎(アンバ)とは?
『デルス・ウザーラ』は、黒澤明が旧ソ連との合作という特異な条件のもとで撮りあげた作品であり、その制作背景自体がすでに黒澤にとってのひとつの転機となった作品です。この映画では、『七人の侍』や『椿三十郎』に見られたような巧緻な多重構造や構図の反復、弁証法的な語りといった構造的な美しさはあまり見られません。むしろそれは、自然という主題にふさわしく、一本の川のように流れる“直線的な語り”として描かれています。
物語は、探検隊の隊長とデルス・ウザーラという人物の出会いと別れが描かれています。自然に深く根ざしたデルスは、文明の側に立つ隊長とは対照的な存在であり、彼らの交流を通じて「人間」と「自然」の関係、そして「理性」と「理性を超えるもの」との関係が浮かび上がってきます。
舞台となるシベリアの大自然は、あまりに強大で苛烈です。猛烈な寒さ、果てのない雪原、襲いかかる風。そこには人間中心の視座は存在せず、ただ「在る」だけの、容赦なき世界です。デルスは、風に、火に、獣に、そして星に語りかけます。彼にとって自然は他者であり、対話の相手であり、決して征服や支配の対象ではありません。そこには文明人には欠けている「聴く知性」が宿っているのです。
印象的なのは、雪原で日が暮れかけた時、草を刈って一命をとりとめるシーンです。死を目前にした状況から、デルスは測量機とロープを使って風除けの草の山を築き出します。自然のなかで生き延びるには、理性や計画ではなく、直感と知恵、そして自然との「関係性」が不可欠であることを示しているように思えます。つまり、「文明」(測量器)と「自然」(草)の融合によって命をつなぐことができたのです。
しかし、やがてデルスは老いに直面します。目が見えにくくなり、かつてのように自然と対等に生きることができなくなる。老いは、どれほど自然を知り尽くした者にとっても未知であり、経験の積み重ねではどうにもならない、時間というどうやっても立ち打ちのできない存在です。デルスは老いを通じて、自らの限界に気づくのです。
この恐れの感覚は、劇中で繰り返し言及される「虎(アンバ)」という象徴に集約されています。かつて撃った虎に後悔の念を抱き、以後も虎に追われる感覚を抱いているデルス。虎とは何なのでしょうか。おそらくそれは、「人間の理性の届かないもの」の総体──自然の恐怖、老い、死、喪失、虚無──そのいずれとも言えるし、すべてであるとも言えのではないでしょうか。
都市に移住したデルスは、もはや自然と対話できない場所で急速に衰弱していきます。暖炉の火を見つめる姿は、かつて火と語り合っていた男の、沈黙の象徴のように見えます。対話の不在が、彼を虚無へと誘います。
新型の銃を受け取ったデルスは、虚無から逃れるため、再び森に戻ろうとします。しかし、彼はもはや“自然と対等”ではありません。デルスは森の中に帰ったつもりだったのですが、「理性の道具(銃)」を手にしたために、もはや対等ではなくなっていたのです。デルスはそれまで「自然と語る者」だったのに「自然に命令する者」になってしまったのだと思います。結局その銃が原因で命を落とします。理性と自然のあいだにあったデルスという存在が、その中庸性を失ってしまい、理性の方に傾きすぎたために自分の命を失うことになったのでないでしょうか。
本作は、『どですかでん』における黒澤の創作的断絶を経たのちの「執着の放棄」や「問いなき創作」への再出発が感じられる作品です。かつてのように人間を賛美するでもなく、劇的な構造を持たせるでもない。ただただ、不可逆な時間と老い、喪失と虚無を静かに受け止める。そのなかに、かつて黒澤が正面から描くことができなかった「自然」と「死」というテーマがあらわれているんだと思います。
この映画で黒澤は、問いをぶつけるのではなく、問いに身を委ねています。デルスの老いと死を通して、「人間の限界」という避けがたい真理を描き出しているのです。
イマジカBS(過去の録画)で鑑賞 (HDリマスター)
96点
森の聖人と探検家の稀有な絆が美しい
人生とは、生きるとは・・・
黒沢作品の中でも、特に好きな一本だ。
大自然の中で生まれ育ち、狩猟で生活をしているデルスウザーラ。 一方、近代的な生活圏に暮らす極地探検隊の隊長。 自然に対する捉え方が異なるこの二人が、自然の中で出会い友情を育んでいく。
その絆を深めるきっかけとなる件がある。 二人が大氷原の真っただ中に取り残され、絶体絶命の状況に陥る。 しかし、デルスが持つ生活の知恵によって、最悪の事態を見事に回避する。 この出来事によって、隊長のデルスに対する信頼が深まり、ここから、年齢も生き方も違う二人の友情物語が展開されていく。 しかし、 友情が深くなればなるほど、生活環境や生き方の違いがお互いを苦しめていくことになる。
デルスの死によってもたらされる隊長の悲しみは、もはや観客に委ねられていたと思う。 身近な人が亡くなった時の、罪悪感と喪失感が入り混じった、あの身の置き所の無い悲しみを、我々も映画の中で経験することになるのだ。
自然から距離をとり、安全・快適な生活環境に生きることが、果たして良いことなのかー。 豊かな現在の世界を創り上げた人間の知恵を否定するつもりはない。 ただ、 二人の物語を観ていると、 自然とは、人生とは、生きるとは・・・とどうしても考えさせられてしまう。
本来、我々の心とは、自然そのものなのではないのだろうか。 自然と距離を取って生きるということは、心からも離れてしまうことになるのではないだろうか。 鑑賞後、深い余韻に包まれる一本だった。
どこへ行こうか
黒澤明監督自身の半生記でありSOSだった
1975年、黒澤明監督がソ連に招かれて撮った作品
元々はロシア文学好きの黒澤監督が、1951年の白痴を撮った後、ロシアの探検家ウラジーミル・アルセーニエフの探検記を「エゾ探検記」として企画したものです
恐らくは三船敏郎が隊長で志村喬がデルスに相当する形で明治の初め頃の北海道の話しとして翻案する積もりだったのだろうと思います
ソ連の映画関係者の誰かがそれを伝え聞いたのでしょうか、20年以上もたってその企画が、ソ連からの原作通りの物語でシベリア現地ロケで撮るのはどうかとのオファーとなったようです
きっと酒食の場で盛り上がっただけの、その場限りの話でしょう
どう考えても流れる話です
それが実現してしまいます
ソ連側からすれば、あの世界の黒澤監督に自国を舞台に作品を撮ってもらえるのだから具体化すればおいしい話は確かです
この時期黒澤監督は仕事がなくもしかしたらという計算はあったとは思います
それでも普通、黒澤側が断る話だと思います
それが黒澤明監督はオファーを受けるのです
彼は1969年のどですかでんで初めての大失敗を経験していました
金銭的にも困り1971年には自殺未遂事件まで起こしていたのです
本作はその探検家の物語のようで違います
撮られているものは黒澤明監督自身の半生記なのです
偉大な監督というものは、単に原作の物語や物事を撮っているようで、その実、様々な暗喩を込めて監督が本当に表現したい別のテーマなりメッセージを込めているものです
本作もそうです
デルスには黒澤明監督自身が投影されているのです
第1部は黒澤明自身による栄光の日々の回顧なのだとおもいます
シベリアの荒涼した大地にも似た日本の映画界の中で自分はこのデルスのように縦横無尽に活躍してきたと誇っています
瓶を吊した紐に銃弾を命中させるように、撮って来た映画は皆当てて来たとの自負が溢れています
記念写真のシーンは世界の輝かしい数々の映画賞を獲得してきたのだという栄光の日々の記憶です
だからシベリアの大自然の雄大なシーンをメインに据えて、如何に自分はそこで活躍してきたのかを語っているのです
そして第2部は1965年の赤ひげから、自殺未遂に至る彼の現在を描いているのです
虎を撃ったエピソードは赤ひげでの撮影期間の大幅オーバーによる予算超過、興行スケジュールに穴を空けたことの暗喩です
川の筏が流されてしまうシーンとは、カラー時代となり、テレビ時代で映画界はどんどん斜陽化していき自分は筏に取り残され流されるままだ
助けてくれ!との叫びです
目が衰えて、狙った獲物は百発百中だったのに当たらなくなってしまった!とデルスはもう駄目だ、森で生きて行けないと嘆きます
これはどですかでんの失敗を説明しています
ハバロフスクで何もする事もなくぼんやり過ごす日々
これが今の黒澤明監督の境遇なのです
隊長の奥さんが薪を金を出して買ったことで薪屋とトラブルになり警察に連行された話は、トラトラトラの日本側監督を予算超過や撮影手法が受け入れられず更迭されてしまったことの暗喩になっています
そして彼はソ連からのオファーを受けて本作の撮影に入ります
それがデルスが森に帰ると言い出すシーンなのです
黒澤明監督がソ連での撮影に連れて行けた日本側スタッフは僅か5名といいます
それも世界の黒澤がエコノミークラスで渡航したといいます
ラストシーン
それは誇り高い黒澤明監督のSOSだったのです
このままでは映画界での私は死ぬ
もう死んでいるのかもしれないとのSOSなのです
この救難信号を受信した人がいました
それはハリウッドの映画プロデューサー ロジャー・コーマンです
彼はこの暗号じみたSOSをきちんと読み取り、スタッフの反対側を押し切って興行権を得てアメリカで公開するのです
そしてアカデミー外国映画賞となったのです
もちろん映画自体も優れています
撮影機材もフィルムもソ連のもので、スタッフも現地のスタッフです
なのでタルコフスキーのような味の映像に見えなくもありません
入念なリハーサルや、マルチカム手法、パンフォーカスといった黒澤流の撮影は現地ではとても出来るわけもありません
しかしカメラマンに中井朝一の名前があります
特に第2部には結構な長さのワンシーン・ワンカットの映像もあります
これは気心の知れた中井カメラマンの仕事であると思います
ドラマパートはたしかに黒澤映画の味なのです
そして本作を観たハリウッドの黒澤明監督を師と仰ぐジョージ・ルーカス、フランシス・フォード・コッポラといった監督達もそのSOSを受け止めて、彼ら自身がプロデューサーとなって、師匠黒澤明に再度存分に腕を振るって映画を撮ってもらおうという動きに繋がっていくのです
そこまでを含めてのアカデミー賞なのだと思います
本作はこの世界に名を轟かせている映画界の生きる伝説の監督の物語なのです
自然を専門に撮影する人にまかせたら
老いと環境の変化がもたらすもの
自然と対話するシベリアの原住民ゴリド人のデルス。火、水、風の力を侮るな。夕日が沈むと共に暗闇が訪れ風が止まないなか藁を集めて家作り。マジもんの虎。隊長とデルスの仲睦まじい笑顔の記念写真が染みた。ラストは山に埋葬したデルスの土に槍を突き刺して幕。1902~1907年。
厳しく孤独な生活
総合:75点
ストーリー: 75
キャスト: 75
演出: 80
ビジュアル: 75
音楽: 60
極北の大地で長く猟師として一人で暮らし、それゆえに動物的なほどに自然に重農し素晴らしい能力と純粋な心を持つデルス。彼の能力に驚き、また彼によって何度も助けられたアルセーニエフ隊長が彼に信頼と友情を感じるのは当然であろう。二人の生活する環境は違いすぎるが、デルスは今更生活を変えられるわけがないし、彼が町の生活に馴染めないのは仕方ない。どうしようもない生活観の違いがあったが、それでも彼らの友情と一緒に過ごした経験は一生に一度の本物の邂逅。この貴重な出会いと体験が特別な友情物語になるのはごく自然のこと。
デルスにとって町の生活は窮屈すぎたようだが、やはり森の生活は厳しい。若いうちならばとにかく、家族もなく村の仲間もなく一人森の中を放浪する生活などいつまでも出来るものではないだろう。人はいつか老いるし、そうなれば当たり前のことにも不安と恐怖を抱き、普通のことをすることがより一層に難しくなる。家族を失った彼の過去が定住を許さずいつまでも一人で放浪をする生活を運命づけたが、彼の過酷な運命はどちらにしろ幸せに死んでいく結末を許しはしないだろう。
それはまるで年老いて獲物もとれず敵から身を守ることも出来なくなった野生の虎のようである。天津から来た中国の老人の話などは聞いていて辛い。こんな誰とも会うこともない孤独な生活は耐え難い。そんなことはこの映画の主題ではないのだろうし、実際にこのような生活をしていたデルスという人物もいたのだろうが、彼の能力を尊敬しつつも文明と離れて野生に溶け込んだ生活の孤独な辛さも身に染みる。
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