「真なるリーダーとは?」椿三十郎(1962) neonrgさんの映画レビュー(感想・評価)
真なるリーダーとは?
『椿三十郎』は『用心棒』の続編的な位置づけにあるが、その思想構造はまったく異なる。前作が無法地帯における“力”の再配分を描いたのに対し、本作はすでに確立された秩序、その内部に巣食う腐敗と無思慮を描き出す。舞台は明確に1962年、安保闘争後の戦後日本を反映しており、黒澤作品としては例外的に、露骨に時事と政治を射程に入れた寓話的作品である。
若侍たちの「理想」は、60年代の学生運動に重なる。正義感に燃え、行動に走るが、現実の複雑さを見誤り、結果として多くの犠牲を招く。一方で敵対勢力の室戸(仲代達矢)は、力と策略による冷徹なリアリズムで支配を目論む。
その両者の間にふらりと現れるのが三十郎である。彼は暴力と倫理のはざまで揺れる“問い”そのものだ。『用心棒』では無秩序の外から力をもって秩序をもたらす「完全なアウトサイダー」だったが、今作の三十郎は体制内部に一時的に関わりながらも、決して内部に取り込まれることはない。
彼は教育者として若侍たちを導きながらも、同時に自らの暴力に嫌悪し、「斬りすぎだな」と呟く。彼が「答え」になりえないことを誰よりもよく知っているのだ。もし彼が体制に留まれば、いずれ自らも腐敗する。そのため、彼は去るしかない。「異物」であり続けるために。彼は常に構造の外から介入する存在=問いとしてのヒーローなのだ。
そして、本作でもっとも注目すべきは、“城代”の描き方である。彼の顔が最後まで見せられない構成は、まるでサスペンスのようだ。そしてその素顔がついに明かされる瞬間、観客は「えっ、こんな人物が?」という驚きを覚えるだろう。しかし、この「地味な中年男性」こそが黒澤が示した「統治者の理想像」なのである。
その顔立ちは当時の総理・岸信介を彷彿とさせる。おそらく意図的な造形である。若侍(理想主義者)でもなく、室戸(冷徹な現実主義者)でもない。倫理と知略を併せ持ち、感情を抑え、覚悟ある沈黙と無私の統治感覚で秩序を保つ──その姿には、力ではなく姿勢で国を導く「静かなリーダー像」が映し出されている。
『用心棒』がカオスに秩序をもたらす“力の映画”だったのに対し、『椿三十郎』は、秩序の中に潜む腐敗に対し、倫理と戦略で切り込む“問いの映画”である。黒澤はここで、日本人が忘れた思想──儒教、孫子の兵法、仏教、武士道、神道──を再提示している。
そして最後の一騎打ちは、ただのアクションではない。
三十郎と室戸の斬り合いには武士道の美学が流れている。「納得して死ぬこと」それは、日本人の倫理観の核心である。
いま、日本に必要なのは、果たして三十郎か、それとも城代か?
日本人が忘れたもの。
それでも、必要としているもの。
それが、ここにはそれが描かれている。
4K UHD Blu-ray (クラリテリオン版)で鑑賞
95点