「異文化の表面的理解。かみ合わなさ、すれ違い。」戦場のメリークリスマス とみいじょんさんの映画レビュー(感想・評価)
異文化の表面的理解。かみ合わなさ、すれ違い。
原作未読。二つの短編を一つにまとめたらしい。
DVDについていた解説には、大島監督が「極限状態の中でも友情が生まれることを描きたかった」とおっしゃったと書かれていたが、私にはそうはとらえられなかった。
原作ではそういう物語が展開しているのだろうか?
日本軍俘虜収容所を支配していた雰囲気。
道理の通らぬ狂気。
切腹と言い、セリアズ少佐への処刑の仕方と言い、日本人である私が見ても、反吐が出る。
個々の日本人もいろいろな思いを持っていたはずだが、見事にヨノイ大尉とハラ軍曹に集約されている。(事件を起こすカネモト以外には、ヨノイ大尉に心酔している兵士が自らの意思で行動を起こすくらいで、あとは命じられたままに動く人形として描く)
対して俘虜の方が個々の様子も描かれる。その中で、個性をもって描かれるのは、ロレンス陸軍中佐、セリアズ陸軍少佐、ヒックスリー俘虜長(大佐)。
ヨノイ大尉。
DVDの解説にもあったが、三島由紀夫氏を彷彿とさせる。
実際の三島氏については語るほど存じ上げていないが、この映画のヨノイ大尉は、精神年齢がかなり幼く描かれる。自分の信じている精神性を最高のものとして、俘虜のみならず、自分の部下にも強要する。ロレンス中佐が「我々に”行”を命じれば、自分もやっている」というシーンがあるが、自分のみならず、部下にも強要しているのであろう。
その容貌・身体的なしなやかさのみならず、わずか5人で危険な任務に挑み、1人生還して捉えられ、しかも死刑を前にしてもその闘志を失わないセリアズに惹かれていく。自分では秘めていると思っているその思いは駄々洩れ。心酔している部下がそれを案じ、行動を起こすも、その思いに腹を立て、信じられない処遇を命じる。
ヒックスリー俘虜長が、自分の思い通りに動かないと、キレて暴言を吐き、暴力に訴えて従わさせるしか能がない。まるで、反抗的な児童・生徒を前にした、力のない教員の如く、権力に縋って従わさせるしか能がない。
ロレンス中佐を獄へ入れるのは、無線機に対する落とし前をつけなければ示しがつかないという、不良グループによくあるような論理・スケープゴート。かつ、セリアズ中佐とともに戦ったことがあり、自分よりも親しいロレンス中佐への嫉妬から、排斥したがっているようにも見える。
それを、求道者の純粋性として見るか。私には小学5年生レベルにしか見えない。
裁判ではハムレットを持ち出して西洋文化にも通じているように見せるが、実際は自分の理解したいようにしか理解していない。ヒックスリー俘虜長たちが求める国際法すら理解しようとしていない。自分の精神性を押し付けるだけ。
対して、ヒックスリー俘虜長。
頑固。ではあるが、銃器に詳しいものの名簿を出せば、どんなことになるかを考えて応じない。”長”として、部下を守ろうとする気概がある。
相手の文化(日本文化)を理解しようとしない点では同じだが、上に立つ者としての責務は知っている。
ロシアにて拘留された俘虜たちがどんな生活をしていたかと比較すれば、ここと似たようなものではあるものの、少なくとも、ヒックスリー俘虜長はこの収容所での待遇改善に尽力している。
セリアズ少佐。
過去の思い出から、希死念慮を抱き、それが英雄行為に結びついている。その元になった過去の思い出も映画で描かれているが、正直、あの思い出で希死念慮は理解しがたい。それでも、帰りたい場所への憧憬は美しく、胸に迫る。
そんな心情をベースに、納得のいかないことヘは確固たる信念をもって反逆する。希死念慮をもつとはいえ、”死”への恐れはあり、震えながらも、踏ん張り、視線をそらさないところが、格好よく見える。髭剃りのパフォーマンスも見事。死を覚悟して整える姿。
「映画史上最高に美しいキスシーン」ドス ベソス(dos besos)。スペイン文化圏(ラテンアメリカ含む)で行われる挨拶。初対面やビジネスシーンではあまりやらないけれど、紹介されたときとかちょっと知り合っただけでも行われる。性的な意味合いはない。ラテンアメリカに居たときにラテンアメリカーノから聞いた話では、元々敵意がないことを示すパフォーマンスだったという。まだスペインが各国に分かれていた戦国時代。ギャング抗争の激しい頃。会談等で、武器を隠し持っていないよと示すパーフォーマンス。
セリアズ少佐がどのように思っていたかは表現されていないが、殴りかかって阻止すれば暴動になり、あの場にいた全員が殺される。それをあの突飛な行動で、阻止した勇断に感銘を受ける。
だが、ここに友情はあるのか。ヒックスリー俘虜長は、自分の代わりに俘虜長に成り代わりそうだったセリアズ少佐に命を救ってもらった恩義は感じたであろうが。
ヨノイ大尉は、自分の思いを”性愛”とは考えず、死をも覚悟した任務を遂行する気高き同志として思っていただけ。かつ、日本人同士でも身体接触には慣れていなかったであろう。しかも、スペイン圏の風習など知っているわけもなく、このパフォーマンスをどう受け止めてよいのか、ただたじろぐ。
セリアズ少佐はもとより、ヨノイ大尉が自分に示す情には気づいていただろうが、彼の思想を理解するつもりも、その情に応じる気持ちもなく。”行”をくだらないものと破った如く。
それに対する処刑。どうして銃殺でなく、あんな過酷な仕打ちなのか。他の俘虜たちへの見せしめなのか。白い砂、四方に張られた紐が、結界を示すしめ縄のようにも見えて…。
ロレンス中佐。
日本にいたことがあり、日本語が理解できるので、双方の橋渡し的な役割を担う。その経験と、キリスト教の教え(汝を苦しめるものを許せ:デ・ヨンへの葬式の言葉)にのっとり、「日本人個人を恨みたくない」という信念を持っている。また、皆で生きて帰るために、うまく立ち回ろうとしている。
長いものに巻かれろ的な立ち回りで、俘虜たちのためになるときと、誤解を受けるとき、厄介なことに巻き込まれるときと…。
ハラ軍曹。
私にとって一番理解に苦しむ。彼は度々ローレンス中佐に俘虜になることは恥だという。「俺だったら自決する」と言い切っている。にもかかわらず、ラストのシーンでは、捉えられたときに自決せず、裁判を経て、”死刑”となる。それも「他の奴がやったことと同じ」とも言う。しかも、片言の英語もマスターしている。何があったのだろうか?もともと、「自分は天皇家の英兵」というアイデンティティに酔っていただけで、有言実行にはならなかったのか。
”友情”を語るのなら、唯一、ハラ軍曹のロレンス中佐への思いであろう。思いがけなく、無線機により、処刑の危機にさらされてしまったロレンス中佐。それを酔ったふりして、セリアズ少佐ともども救う。ヨノイ大尉の意に背けば、場合によっては、自分が切腹を命じられるのにも関わらず。それでも殺したくはなかったのであろう。幸い、ヨノイ大尉は振り上げた刃の落としどころに困っていたから、別のスケープゴートを差し出したハラ軍曹へは、皇室のしるしがある煙草を渡し礼を示したうえで、別の仕事(降格?)を命じるだけにする。
ラスト。ハラ軍曹はロレンス中佐に「メリークリスマス」を贈る。キリスト教や欧米文化を理解してというより、俘虜収容所での唯一の人間らしい行いの思い出。それを胸に死に向かうことを示しているように見えた。その言葉を受けるロレンス中佐の笑みは、俘虜収容所で浮かべていたものと同じもの。恨んではいないものの、ハラ軍曹の思いを受け止めているとは思えず、表面的な理解をしているハラ軍曹を憐れんでいるように見えた。
Wikiを読むと、「(監督は)『セリアズ、ヨノイ、ハラそれぞれが自分の思いを伝えられずにいる』という女子中学生からの感想の手紙が、東洋と西洋の対立といった海外の反応や評論家よりも、よっぽどこの映画の本質を捉えているように感じられたという。」とある。
それだったら、腑に落ちる。セリアズ少佐は弟に、ヨノイ大尉はセリアズ少佐に、ハラ軍曹はロレンス中佐に。そして、カネモトとデ・ヨンのエピソードも意味を持つ。
だから、この凄惨な映画の中で、セリアズ少佐の思いが家に招き入れられるところが、弟に思いが伝わったようで、少し気持ちが落ち着くのであろう。
キャスティングによって、永遠に語り継がれる映画。
Wikiによると、どの役柄も変転している。候補に挙がった方々で作ったら、別の印象になりそうだ。だが、この反吐が出そうなシークエンスが続く映画で、このキャスティングだからこそ、また見返す気にもなる。偶然は必然なのだと思った。
コメントありがとうございました。
丁寧に読んで下さって恐縮しております。
「マダム・イン・ニューヨーク」はレビューしてなくて、
お手数かけてすみません。
とみいじょんさまの詳細なレビュー。
細かい所を忘れておりましたので、お陰様でだいぶん思い出しました。
原作があるのですか?知りませんでした。
キャスティングにも二転三転の変更があったのですね。
とても残酷な描写もあり、嫌悪するシーンもありながら、
見終えた感想は意外に悪くはないと思いました。
有名なテーマ曲の印象的な音色やデヴィッド・ボウイの美しさ。
弟への後悔や回想シーンに救われました。
これだけの国際的なプロジェクトの映画ですから、途中で資金が尽きたりして、本当によくぞ完成を見たものですね。
不可解な描写も返ってどんな意味なのか?と、興味を惹かれます。
とみいじょんさまはラテンアメリカに住んでいらした事がおありなのですね。
そういった知識もこの映画の解釈に生かされていて成る程と
思いました。
こちらこそ今後ともよろしくお願い致します。