「徹底した主人公の視点で、何もかにも「ゆれる」」ゆれる CRAFT BOXさんの映画レビュー(感想・評価)
徹底した主人公の視点で、何もかにも「ゆれる」
本作は、徹底してオダギリジョー演じる主人公の視点からはずれない。その徹底ぶりがすごい。
もう一人の主人公とも言えるのが香川照之演じる兄だが、その兄の気持ち、行動、日常の暮らしぶり、映画で語られる兄に関する全てが、主人公である弟からの視点だ。
兄だけでなく、他の登場実たちも同様で、殺された女(真木よう子)の事もまた、弟が知っている情報しか観客に与えられない。例えば、兄が服役している間、主人公は父親と交流していないわけだが、そんな父親がどうやって過ごしているか観客が知るのは、主人公が父親が雇っている従業員から得た情報だけである。このように、観客に提示される全ての登場人物や出来事が、弟が持ち得る情報だけで構成されている。
だからこそ、観客は常に、主人公と共に考え続ける。与えられない情報について、想像を巡らせ補完することを求められる。だから、よく分からない。
映画とは、基本的に観客に対して「神の視点」が与えられる。物語を俯瞰して見ることができるから、あらゆる登場人物が持ち得る情報を全て手に入れることができる。ところが本作は、主人公が持っている情報以外は持っていないから、観客は常に、モヤモヤとしながらストーリー展開を見守るしかない。観客の視点もまた「ゆれる」のである。
しかも、本作の主人公は、事件に対する記憶が曖昧だ。女を死なせてしまった兄の行動を見ていたはずなのに、兄が突き落としたのか、はたまた偶然落ちてしまったのか、主人公の解釈と記憶が「ゆれる」たびに、観客のそれも、また「ゆれる」。
ラストシーンの兄の表情への解釈や、兄が実際に犯罪を犯したかどうか、あるいは兄が判決を受け入れた理由など、観客達の間でさまざまな解釈が議論を呼ぶ。それはそのまま、主人公の心の葛藤である。
冒頭で「主人公の視点に徹底している点がすごい」と記したが、「この映画は主人公の視点だけで構成されています」ということが、ものがたりの終盤まで、あるいは見終わった後まで、観客に気がつかせない、その構成が非常に効果的であることが何よりも素晴らしい。
西川美和監督の手腕に脱帽だ。
もちろん、監督の演出の成功を支えたのは、オダギリジョーや香川照之の演技があってこそだという事は言うまでもない。