「今や“名無しさん“が世の中に一杯」セブン 鉄猫さんの映画レビュー(感想・評価)
今や“名無しさん“が世の中に一杯
30年ぶりに見た、と言っても前回はVHSのレンタルビデオで、今や名監督として揺るぎない地位を確立したデビッドフィンチャー監督の「エイリアン3」に続く2作目、この後に大好きな「ファイトクラブ」、「ベンジャミン・バトン」、「ドラゴンタトゥーの女」を撮るんだから物凄く大好きな監督です。
七つの大罪になぞらえて世に原罪を問う、と言っても被害者は利権政治家とか大富豪とか汚職警官とか大罪を象徴するような人選でもなく、ちょっと目についた犯罪を犯している訳でもないどこにでも居るような不快な者達、となると単に自分が犯した悪行を正当化する意味を自分勝手に後付けしただけなんじゃないの?というのが物語の中心、そんな不快な街に無関心を装うサマセット刑事、この街で犯罪者と戦い功を成そうとやって来たミルズ刑事、我慢ならず反社会的行動を起こしたジョーン・ドゥの三者の物語。“ジョーン・ドゥ“という日本で言えば「山田太郎」のような印象の薄い“どこにでもある“代表名。それって匿名みたいな、いわゆる“名無しさん“と同じような物、と言うことは簡単に言うと
「目に入った不快なものに我慢ならず大仰な理由をつけて過剰なまでに報復する匿名“名無しさん“」って、正に「現代のSNSの有り様」と気づきました。
国内上映が1995年、日本ではインターネットプロバイダが一般庶民向けに5千円程度で出始めた頃、掲示板といえば国内ニフティーサーブか海外ニュースグループがあり、当時からネットケンカやネットアラシやネットストーカーはおりましたがこの映画は当然そんなネット社会をベースに草稿した訳ではないでしょう。30年前見た当時はこの映画のことをどこにでもある不快さを罪として罰を与えるが如く猟奇的殺人に及ぶ「過剰な制裁」に対する恐怖と愉快犯でもない動機不明な「不気味な犯人像」に対する恐怖を感じさせる傑作だと思った訳ですが、匿名の人が「過剰な制裁」ではなく「妥当な制裁」を加える道具が発明されたら世の中はどうなるのでしょう。
インターネット上の数々のSNSサービスには「傲慢」「強欲」「嫉妬」「憤怒」「暴食」「怠惰」「色欲」に該当するような政治家、実業家、批評家や芸能人など山ほど居て、その何倍もアンチがどこのSNSでも“正義の鉄槌““不快の報復“の名の下に身勝手な「妥当な制裁」=アンチコメントを加えるジョーン・ドゥで溢れ返りエスカレートしては一線を超え誹謗中傷まで発展し訴訟沙汰になるケースもあり、苦々しく思いながらも「どうなのこの国?」と無関心を装うサマセット刑事が居て、「論破論破ハイ論破」の如く論客として功を成したいミルズ刑事が今日も現れる。この映画がネット社会を予見したものでないのならジョーン・ドゥは特異な人間ではなくどこにでも居る人、ただ行き過ぎちゃっただけと言う人間の本質論と警告の話だったのかも知れません。30年前は特異な犯罪者が社会を振り回すお話の印象、今見るとどこにでも居る一線を超えてしまったアンチ野郎の内の1人、見方も恐怖の捉え方も180度変わってしまいました。
私が日常で不快に思うのは駐車場の一方通行を逆走する車(強欲)とか挨拶もしない無愛想なコンビニアルバイト(傲慢)とか回転寿司のシャリが作り置きなのかパッサパサな時(怠惰)とかダイエット中で食べれない時にラーメンの行列を見かけた(嫉妬)とか、それでもまあ制裁や報復を与えることもないし、逆に不快を与えていると思えたのは電車にギリ飛び乗ったら女性専用車両でした(色欲)とかスパゲティはすすらないと食べれない(暴食)とかなどなど、結局“不快“は人から貰うし人に与えるしそこはお互い様、普通に有り得ることなら怒ってもしょうがないと憤怒を沈めるのがアンガーマネージメントの肝かなと思っています。新幹線で赤子が泣くのは普通に有り得ること、眠りたいなら耳栓は準備しておかなきゃですね。
ただし、映画館でカバンからお菓子の入ったビニール袋出してシャカシャカシャカシャカ、シャカシャカシャカシャカ言わしてる奴、アレだけは絶対に許せません!(憤怒)