「人類への罰と男への試練」トゥモロー・ワールド ゼリグさんの映画レビュー(感想・評価)
人類への罰と男への試練
僕がこの映画を観て思う事はふたつある。
ひとつはこの映画は「あえて」説明を省いて、記号は徹底して記号として描いている。
つまり、かなり「映画的」だと。
例えばジュリアン・ムーアという大女優をジュリアン・ムーアとして否が応でも認識させようとしている。役名をジュリアンにしている時点でそれは一目瞭然であり、「こういうスターもあっけなく死ぬんだよ」と描く事で、この映画の特徴である「持続した時間の中で起きる物事のあっけなさ」をより際立たせている。
その上、物語の鍵であり、人類の希望の鍵となる人物の名前を「キー」とするなど、恥ずかしいぐらい、わかりやすいものはわかりやすく、記号的にしている。
要するにこの映画は始めから「ストーリー」を語ろうとはしておらず、その記号ひとつひとつが指し示す物こそが重要なのだという事ではないだろうか。
それに関連してもうひとつ、こちらが本題なのだが、この映画はSFではなく実はファンタジーではないのかと思っている。それは何故か。
「人類」の子どもが生まれなくなった世界。
その「人類だけ」という部分を強調する存在として、「犬」がこの映画にはしつこいくらいに出てくる。
仮に18年間、「地球上の生物」すべての繁殖が止まっているのであれば、寿命の短い犬なんかとっくに絶滅しているはずであり、劇中にも登場する、つい最近生まれたような子犬がこの世界に存在している事など、ありえないからである。
つまり、この異常事態は決して疫病の空気感染や、環境汚染などが原因ではないという事を示している。
「女性が服用する薬の副作用や、未知の病の流行によるものなのではないか」という考え方も充分出来る。実際それを匂わすセリフも劇中で登場する。
しかし僕は、そんな現実的な問題ではなく、もっと超自然的な力が働いた出来事のような気がする。
簡単に、物凄くアホみたいに言うと、「これ神様のしわざでしょ!」という事である。
前提として、この作品は「有神論」ありきで撮られているように思う。
まずこの映画は「太陽」が常に主人公、ないしはその協力者の背後に、まるで「狙いを定めて監視」しているように見え隠れする。
僕はこの太陽は、メタファーでも何でもなく、「神」そのものなんじゃないかと思った。
これらの結論に至った根拠は一応ある。まずは主人公の名前「セオ」は、神を表す「ソー」の別の呼び方であり、レジスタンスである「FISH」の名も恐らくは聖書からの引用であり、見当違いでなければ他にも細かい引用は色々ある。
そして最初に説明した「人類だけ」という部分の説明に執拗にこだわっている理由。僕はここが本当に引っかかる。
それを踏まえて考えると、こんな結論が出た。
この世界には「神」がいる。そしてその神は人類に「罰」を与えた。それが何の罰かはどうでもいい。環境破壊でも何でも。
とにかく神はこの世界から人類を減らそうとした。巨大隕石や大津波なんかの災害を使わず、じわじわと。
そして人類が罰を受け、打ちのめされ、ある程度荒廃した時点で、神は別の世界を作ろうとした。
そして「神」の名を持つ主人公に「試練(テスト)」を与えた。わかりやすく言うと、ジム・キャリーの「ブルース・オールマイティ」みたいなイメージだ。こっちは全知全能の力などくれず、ただのオッサンのままなんだけれども。 ともかく、新しい世界を創る「鍵(ヒロインのキー)」を(天地創造に費やした期間とは別の)明日の世界まで届けさせる試練であり、それをクリアしたあかつきには「天国」という唯一無二の楽園へと行き、「明日の世界」の神となれる(神は主人公が死ぬと知っていたのかもしれない)。
「キー」とは新しい世界の鍵であると同時に、セオが天国に行き、神への扉を開ける鍵という意味もあるかもしれない。(この「有神論ありき論」で考えた場合、その方が面白いじゃないですか。)
その一部始終を神は太陽の姿で、あるいは光の姿で静かに見届け、見守っていた、というような話であり、立派なファンタジーなんじゃないかと思う。神様ひどす。
こんなひねくれた、こじつけだらけの話を妄想したくなるぐらい素晴らしい作品です。
ちなみに僕は神様を冒涜しているわけでも、神様を崇拝している方々を侮辱しているわけでもありませんので、あしからず。