「アルモドバルの突き抜けた人間讃歌」トーク・トゥ・ハー つとみさんの映画レビュー(感想・評価)
アルモドバルの突き抜けた人間讃歌
主人公(なのかな?)ベニグノの行動に賛否あるようだ。まあそりゃそうだ。なんせ犯罪だからね。
しかし観ていて自分にはベニグノが行為に及んだとは思えなかった。つまり彼は犯人ではない。実際ベニグノは自分がやったとは言っていない。
愛する人のため介護士の資格を取り尽くす。この行為は、仮に元々恋人や伴侶であったならただの美談だ。
ここまで狂人的に尽くせる男であれば、彼女の妊娠がどこかの誰かのせいであるよりも、自分であると錯覚することのほうが受け入れられるのではないか。
ベニグノは、どこかの誰かに犯されてしまった事実と自分が投獄され彼女と会えなくなることを天秤にかけ、後者を選んだ。
普通に考えれば、ベニグノが罪を受け入れたとしても事実は変わらないわけで、何の意味もないように思えるけれど、ベニグノにとっては違ったように感じる。
ベニグノにとっての究極の選択ののち、彼はさらなる選択をする。彼女と共に生きるために自らも昏睡状態になろうとした。
その試みは残念ながら失敗に終わってしまうけれど、愛する彼女は目覚め、新しく幸せに生きられそうなエンディングは、ある意味でベニグノにとっても彼女にとってもハッピーな終わりなのかもしれない。
本作の監督ペドロ・アルモドバルの作風は基本的に人間讃歌である。
とはいっても普遍的な普通の人を物語の中心に置くことはない。どこか突き抜けた人や、特殊な状況に置かれた人などを描く。
多くの人がレビューなどで「共感」というフレーズをよく使う。共感したとか、共感出来ないとか。この「共感」がアルモドバル監督作の場合はそもそも起きにくい。普遍性が薄いから。
動物園の動物を見るように作品の中のキャラクターを見る。キャラクターに対して観る側の私たちが得られるものは「理解」だけである。
何が言いたいかというと、アルモドバル監督作品を観て私たちがすることは、共感出来ないキャラクターへの批判ではなくて、彼らが何を考え何を思ったか考察することだけなのだ。
そして、観る側が何を感じたかだけが重要なのである。