「楽園以上に奇妙(ストレンジ)な存在とは?」ストレンジャー・ザン・パラダイス あき240さんの映画レビュー(感想・評価)
楽園以上に奇妙(ストレンジ)な存在とは?
サブカルチャーを30年以上前に牽引した傑作
今観ても本当にサブカルチャー映画だ
手作りで荒削り、しかし何かが違う空気感が充満している
何故に白黒なのか、何故にぶつ切りの暗転カットつなぎなのか、長回しを多用する狙いは何なのか
東京物語 小津安二郎の影響?
確かに競馬の出場馬の名前がトーキョーストーリーだ
そんなことよりもこの空気感、雰囲気に浸る事自体が本作の楽しみ方なのだろう
若い三人の男女、二人はハンガリー出身だ
ハンガリーは中欧にあり歴史は古いが元々から田舎の国だ
しかも当時は冷戦真っ盛りの東側共産圏ブロックの国で鉄のカーテンの向こう側の国だったのだ
今日のように簡単に飛行機で行き来きできる政治環境ではなかった
だからロッテおばさん初め登場するハンガリー人は何か特殊な事情と強力な政治的つてが無い限り、出国して、ましてや西側の中心米国本土に居住なぞできるわけがない
またもし帰国したら米国に戻れるかも極めて怪しいのだ
下手をすると投獄されるかも知れないのだ
そういう現代とは全く違う時代だったことを踏まえなければならない
もっというならば、ハンガリーは鉄のカーテンが最初に破れた国でもある
本作の5年後の89年5月隣国オーストリアとの鉄条網が開かれ鉄のカーテンの崩壊、ベルリンの壁崩壊、共産圏ブロック崩壊に至る出発点になった国なのだ
そのハンガリーの冷えきった国がこれから春に向かう微かな兆しを本作は裏側で表現しているのかも知れない
もう一人はアメリカ人
しかし彼もNYではウィリーしか友達はいない
ウィリーが米国人になりきっていた外国人と知り、彼は自分自身の都会での孤独さを知るのだ
彼も恐らく米国内の田舎の出なのだろう
つまり全員が異邦人(ストレンジャー)で、アメリカの何処に行っても孤独なのだ
ウィリーは10年もNYで暮らしハンガリー人であることを捨て忘れようとし、米国人に成りきろうと努力すればするほど孤独なのだ
その孤独感は白黒の粗い粒子の映像とクリーブランドの寒々しい氷雪でこれでもかと表現されている
終盤の温暖なパラダイスであるはずのフロリダでもそれは変わらない
寒々しいのだ
結局エヴァと言う言い訳を得て彼はハンガリーの首都ブダペストへの直行便に乗り逃げ帰るのだ
エヴァもまた結局米国にいても孤独であること、しかし独りでは寂し過ぎることを自ら悟る
それでもあんな国に帰国するよりはマシかとモーテルに戻る
エディは米国人であるはずなのに独りぼっちを嘆く
とどのつまりみんな孤独のまま、映画が始まり、終る
その三人の心証風景への共感を強くつたえる力が本作には確かにある
初めて上京して独り暮らしを始めた頃の記憶と重なる人は多いのではなかろうか?
タイトルのストレンジャー・ザン・パラダイスの意味とは何のことだろう?
楽園以上に奇妙(ストレンジ)な存在とは?
楽園とは単にフロリダではなく、自由のない故国ハンガリーから見れば自由の楽園アメリカのことだろう
ではアメリカ以上に奇妙な存在とは一体何か?
それは彼ら三人だ
それは、そんな楽園で何で孤独なのだ?
なんで自由の無いハンガリーに戻ってしまうのだ?
逃げ帰ってしまうほど懐かしの故国が恋しい楽園であるなら、そもそもなんでアメリカに移住して来たのだ?
そして自由の国アメリカに生まれたエディはなんで異邦人とつるむしかない程孤独なのだ?
それはまた奇妙な不思議な話だ
タイトルの意味はつまりその問いかけなのだ
劇中のエヴァが聴くスクリーミン・ジェイ・ホーキンスはクリーブランド出身の黒人R&B歌手というよりはブールズ歌手
掛かる曲は I Put a Spell on You 1956年のヒット
公開当時からでも30年近い大昔の誰も知らない忘れ去られた曲
監督が好きな歌手という
渋い好みだ
しかし1984年のあの当時に、共産圏の中欧から来たばかりの若い女性があの曲を知り得て好きになるかというと相当に無理な話だが、野暮は止めよう
遅まきながら鑑賞しました。
ハンガリーと聞けばこのウィリーとエヴァとロッテおばさんを思い出すようになりそうです。
「巴里のアメリカ人」や「イングリッシュ・ペイシェント」のような”寄留の他国人“の物語だったのですね、レビュー拝読してよく判りました。
きりん