「裁判支援に立ち上がる人々に絆の大切さを感じずにいられませんでした。」それでもボクはやってない 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)
裁判支援に立ち上がる人々に絆の大切さを感じずにいられませんでした。
この映画は、上映時間は147分もあったのですね。でも全然長く感じませんでした。もっと判決が出たあとのことも引っ張って欲しかったくらいです。
冤罪を扱った裁判ドラマなら、これまでの邦画では被告側に感情移入して、検察や裁判所が悪玉として小憎く描かれることが多かったのですが、この作品は本当に細かく裁判の実情とその背景まで描き込まれていて、まるでドキュメンタリーを思わせるように、悲壮感にとらわれず、悲観的にもなることなく、しかもユーモアたっぷりに描いていることに好感が持てました。
これだけの内容を、時間をかけ、独自に脚本に書き下ろされた監督の情熱に脱帽です。監督の情熱とは裏腹に、表現は客観的に事実関係を丁寧に追っていきます。長い時間を調査に充てていただけに、取り調べから裁判にかけて、リアリティに富んでいました。もしこの作品で描かれているとおり罪なく、こんな所に押し込められて、自白を強要される羽目になったら、恐怖です(>_<)!
そういう映像の積み重ねを見せられると、見ている側のフラストレーションは、監督が意図した通りに否が応でも高まっていきます。そして、痴漢冤罪支援団体や親友や元カノまでも加わって、一丸となって裁判に挑む道筋は、すごく自然でした。この部分が一番感情移入できて、盛り上がりましたね。
ところでこの作品は、映画以上に重いテーマを残してくれました。
やってもいない事で罰を受けるわけがないと普通の人は、こころのどこかで思っているでしょう。しかし現在の代用監獄制度という密室で、拷問に近い質問攻めに会うと、ついついやってもいない罪を根負けして認めしまうという冤罪が、現在も起こっています。
「罪を裁く裁判官こそ、裁かれるべきである。」という主人公のこころの叫びは、まさに言い得ていたりです。以前「オーラの泉」で江原さんが、裁判官は地獄に堕ちる人が多いと言てっいたのも、裁判の生産性を高めるために、被告の証拠や抗弁に耳を片づけずに有罪判決を出してしまって、それが帰天後に真実に気づいて、誤審の罪の意識の重さに墜ちる人が多いのではないかと思いました。
もう一つ、気が重いのは数年後に迫った陪審員制度です。有罪か冤罪か究極の結論を求められたとき、現在の裁判官と同じ重荷を民間人が負わされることになります。この作品を見て、自分が陪審員となった場合に正しい判断ができるかどうか、とても不安を感じました。
劇中裁判官が司法研修生に、裁判の目的は何かとしいう問いがありましたが、その答えは、無実の罪の人を出さないためという答えを出していました。
無実の罪の人を出さないためもこれから司法に関わる全ての人に、正しく見て、正しく判断できるよう「無私のこころ」を大事にして、先入観で犯人と思える人にレッテルを貼らないように心がけていきたいものですね。
さらにこの作品での冤罪事件と同様に思えたのが、いじめ問題です。
学校という密室で、ひたすらいじめの事実を隠蔽しようとする学校や教育委員会に対して、被害者側の子供や父兄は、この作品の被告人と支援者たちと同様の思いを抱いているのに違いありません。
いじめにあって息子さんが自殺した上に、いじめた方から証拠がないのをいいことに誣告罪で逆提訴されるなんてことすら起こっています。
ひとりひとりが無関心でいると、いつわが身もまた、理不尽な出来事の当事者にされてしまうことが起こるかもしれません。
映画『それでもボクはやってない』を見て、そういう現代であるからこそ、人々の絆の大切さを感じずにはいられませんでした。