「意味不明な場面も、深読みすればするほど、面白さと感動が深まる!これぞ千尋(計り知れない水の深さという意味)」千と千尋の神隠し mary.poppinsさんの映画レビュー(感想・評価)
意味不明な場面も、深読みすればするほど、面白さと感動が深まる!これぞ千尋(計り知れない水の深さという意味)
見るの何度目かな?実は公開当時「映像美エンタメは凄いけど、話はいまひとつ意味不明、ナウシカやラピュタの方が面白いし感動」と思ってた。カオナシに現代社会批判が多々こめられている事は理解できても、まだ読みが甘かった。しかし今回また映画館で隅々まで見て、過去のインタビュー記事やネット等の考察も読み、新たな気付きに感動の渦にまきこまれた。これまで見逃してた細かなとこもちょいメモ。
宮﨑監督は映画内で説明しないので、意味不明…と感じた人はヒントにしてみて?
★カオナシ、河の神などが「吐く」行為が何度もあるのは「デトックス、浄化」を表す。醜いが重要。
また、千尋がハクに「この世界の物を食べないと消えてしまう」と食べさせられる小さな丸薬、非常に食べづらそうな様子だが、これは後に、傷ついたハク竜に千尋が苦団子を食べさせ、呪いのハンコを吐き出す場面と対になる。ハクがおにぎり(母の味、人間世界での懐かしい食)をあげて「大粒の涙がこぼれる」のも「苦しみ、悲しみなどの本音を吐き出す」ことであり、浄化。
★油屋は昔の風俗店の象徴という説は有名だが、これは宮﨑監督本人ではなく鈴木氏の言葉。宮﨑監督本人は「油屋=当時の鈴木氏が金儲け主義に傾倒していたジブリ、千尋=スタッフの娘千晶、油婆=鈴木氏(自分も少しミックス)、銭婆=高畑勲監督、窯爺=自分、ハクも一部自分の分身」として描いているそうで。油婆(鈴木氏)が坊(吾朗氏や若手)を溺愛し、血だらけのハク竜(駿氏)を「さっさと片付けな、もうその子(老いぼれ)は使い物にならないよ」と捨てる場面…。
銭婆のヒトガタ(白い紙の、人型の鳥)はあんな恐ろしいのに、実はただの紙。絵コンテを書くのに苦しめられているのね…そして顔も見えない世間の人々の声にも。
それではジブリのイメージを下げると心配した鈴木氏が「風俗店のような日本社会への批判」と評論家うけのよい説をでっち上げマスコミに伝えたそう。その説だけ信じて「何故ソープランドが舞台?」と揶揄する人もいるけど、そもそも「川で溺れたカムパネルラ」「環境汚染の川」を描きたいと先に考えたら、水が重要なテーマになり、神々が遊びに来る場所は湯屋が自然な流れ。千尋の名も深い水を表す語で、ハクが千尋にかけた呪文は「そなたの内なる風と水の名において解き放て」。竜も水神。ただ店名は「油屋」で「水と油」対比なのが意味深。
★「油婆は相手の名を奪って支配する。いつもは千でいて、本当の名は大事に隠しておくんだよ」
「千」は名でなく数字、番号。人格や個性を無視した囚人番号のような。
実は油屋の従業員達は 適当な偽名で契約し、実は意外と自由に(ホワイト企業的に)働いているのだが、ハクは正直に本名で契約してしまい苦しんでいるという説をどこかで読んだ。
宮崎駿氏の愛読書『ゲド戦記』では「真の名」が重要なテーマに描かれ、宮﨑作品は「名」にこだわりをもつ。シータとムスカの本当の名、ポルコも偽名、ハウルの複数の名、そして千ちひ。
(もっとも、ゲドより遥かに昔、古代の古事記やギリシャ神話でも、お化けに名を知られると命を奪われると云う。ちなみに、「この世界の物を食べないと消える」や最後の「トンネルを出るまではけっして振り向いてはいけない」も古事記由来)
若かりし頃宮﨑氏はペンネームを複数使ったそう。ジブリ設立後は「大字武里」(おおあざたけさと。音読みで大ジブリ)というペンネームにしたかったが、すでに宮崎駿の名が有名になり始め、スポンサーが許可せず、以降ずっと本名のまま。仕事で本名を出してしまいプライベートも無く、ハクのように苦しんでいるのかもしれない。
★リンの「雨がふりゃ海くらいできるさ」という言葉、印象的。神から見た下界ってこんな感じかな、海に沈んだ町で人は右往左往しているかな。ダムに沈んだ村…?とか想像したけど、あれは海。電車内の広告に「海老、海の幸」など書いてあった。もしかしたら温暖化の氷解で近い将来海に沈む町や、異常気象の大雨災害を暗喩しているかも。
切手には「のりきり 滋養 絶佳」と書かれ、絶佳とは風景がすぐれて美しい風光明媚。
★窯爺の切符「40年前の使い残し」40年前に何があったのか調べてみた。映画公開2001年なら1961年(昭和36年)に何が?色々な事件のうち関連ありそうな事は不明だが、1941年生まれの宮崎駿監督が20歳の時。色々あったろう。かつて監督と加藤登紀子さんが『紅の豚』対談で「僕らの世代にとっての『あの頃』とは1960年代」と言っていた。安保闘争、学生運動の時代。監督は東映動画入社後は労働組合リーダーとして闘争したそう。『千ちひ』の静かな電車の場面はもしかすると、『紅の豚』の飛行機の空の墓場の雲の場面と関連しているのかも?仲間が命を失ったり、孤独に飛び続けるような心情があったのかも。
★電車に「行先 中道」と書いてある。仏教用語で、二つの対立するもの、有と無、生と死の狭間を表す言葉。また、快楽も苦痛も感じない悟った状態。行先(終点)は悟り(成仏)の状態?監督によるとこれは環状線なので、生死の狭間をずっとめぐり続ける輪廻の輪なのだろう。
★「6番目の駅」は「六道」を表すのだろう。仏教用語で、全ての生き物が、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、6つの世界のどこかに再度生まれ変わるそう。1復楽時計台駅(仮称)、2油屋駅(仮称)、3南泉駅、4沼原駅、5北沼駅、6沼の底駅。千尋たちは油屋駅で乗った。他の乗客(カオナシと同じく透けた黒い影)は沼原駅で降り、その先は千尋達だけ。その後の北沼駅周辺では派手なネオンがたくさん光っていたのが気になる。そして沼の底駅で降りた。
当時、宮﨑監督は「宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を描きたかった、誰かの犠牲の上に命が生かされていることを描かなきゃいけないと思った。」と言ったそうで。銀河鉄道を思わせる描写が幾つもある。
『銀河鉄道の夜』では、
1どこかを発車して、2銀河ステーション、3白鳥の停車場、4鷲の停車場、5小さな停車場、6サウザンクロス南十字、7石炭袋の停車場(終着駅)。
ジョバンニとカムパネルラは銀河ステーションから乗り、様々な人々と出会うが、みな6番目の南十字星で降り、車内は2人きりになる。終着駅が見えるといつの間にかカムパネルラの姿は消え(降り)、ジョバンニは1人きりになり、(降りられず)気付くと元の世界に帰っていた。
鉄道内で出会った人々との会話では「ほんとうにあなたのほしいものはいったい何ですか」「ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない」等まるでカオナシを想起するような話をしていた。また、「そんな神さま うその神さまだ、ほんとうの神さまはたった一人ひとりだ」と1神教(キリスト教)らしき話をし、『千ちひ』は日本の八百万の神様の話で対照的。
情景描写では、銀河鉄道は「高い高い崖の上を走っていて、その谷の底には川がやっぱり幅ひろく明るく流れていたのです。(中略)この傾斜があるもんですから汽車は決して向こうからこっちへは来ないんです。」「汽車が小さな小屋の前を通って、その前にしょんぼりひとりの子供が立ってこっちを見ている」などの描写、雰囲気が似ている。
さらに、1人きり残され泣いているジョバンニにブルカニロ博士は「さあ、切符をしっかり持っておいで。お前はもう夢の鉄道の中でなしに、ほんとうの世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いて行かなければいけない。天の川のなかでたった一つの、ほんとうのその切符を決しておまえはなくしてはいけない」と語る(初稿)。切符とは人生を生きる上での切符、名前だとすれば、最後の銭婆やハクの言葉と重なる。
★長年ずっと疑問だった数々の点が、誰かの考察「ハクは千尋の兄だった」の視点で、突然つながった。
川に落ちた千尋は裸。なら、あの手は服を着てるから靴を拾おうとする千尋ではない。父かな?と思っていたが、実は絵コンテに「子供の手」と書かれているそう。
川に落ちた(一度は死にかけた)千尋を救ったのはハク。川の神が人の姿に実体化して?
それもあり得るが、万能の神が助けたのでは、銀河鉄道のカムパネルラとつながらない。
しかし「ハクは千尋の兄。千尋の命と引き換えに死に、その後、川の守り神になった」とすれば、まさにカムパネルラで、数々の疑問が腑に落ちる。
なぜ母が千尋に冷たいのか?長男を死なせるきっかけを作った千尋。映画で母が最も異常に冷たいのは、川を渡る時だ。息子を思い出すから。千尋が兄に懐いていなかったはずはない、きっとショックで記憶にふたをしてしまったのだ。それでも千尋には「川に落ちたことがある」とだけ話し、詳細を語らないのは母の優しさ、千尋への愛。無神経で能天気に見える父は妻子を笑わせようとがんばっている。現代社会批判にしか見えなかった家族の姿が、急に切なく、不器用な愛にみちて見えてくる。友達と離され転校させられる寂しさでいっぱいの千尋だけでなく、ずっと胸奥に息子の死をかかえ心ここにあらずで生きる両親だから、「今を生きていない」状態の3人はまるごと神隠しにあった。
命を救われたから千尋は、銭婆に契約印を返しに「戻りの電車は無い」二度と帰れないかもしれない黄泉の国へ行く。窯爺の「愛だ、愛」は兄弟愛。
音楽の「あの夏」「あの日の川」、あの日っていつ?大人になった千尋が、この夏の不思議な冒険を懐かしんでる?そんなはずない、旅を終えた千尋は「今」を生きる子供なのだから、テーマに合わない。「いのちの名前」も同様に過去を懐かしむ歌詞で「消えない夏の日、なつかしいいとおしいひとつの命、いつか名前を思い出す」…ん?映画内では油屋で必死に冒険し、のんびり懐かしむ時間などなかったはず、最後には自分達の名前を取り戻したから映画と歌詞が合わない…?
それらの疑問もつながった気がする。千尋は記憶を取り戻した瞬間、昔 川で命を失い(三途の川、一度は死んだ)自分を救い、ひきかえに死んだハクの存在を知り、その命を思い、その夏の日を思い出しているんだ。自分が死に、救われ、そのひきかえに命を失った人がいるその場面が、この映画で最も重要な場面だから、映画のラストシーンなんだ。(靴が川に流されるラフ画)
千尋は今10歳、ハクは12歳、普通なら自然界の川の神ならもっと高齢のはず。だが元人間で死して守り神になったとすれば合点がいく。12歳で死んで時が止まっているとしても、もっと年下だったが少し年をとり今12歳だとしても、兄妹になり得る年齢差。(時間の流れる速さはたぶん異なる。昼夜逆転で、四季すべての花が一度に咲いている不思議な世界)
人は二度死ぬと云う。一度目は肉体の死、二度目は忘れ去られる時。ハクは守るべき川も埋め立てられ居場所を失い、3度目の死かもしれない。このまま消え去る寸前だったのかも。
饒速水小白主、神様みたいな名と千尋は言ったが、仏様に与える名のようにも感じる。
「いのちの名前」の歌詞では、「見えない川」埋め立てられた川の前で誰かを思い出そうとしている。
「あなたの肩に揺れてた木もれ日」、竜でなく人の姿。
映画の後日だろう。この冒険を忘れた千尋がかすかな記憶でハクの名を思い出そうとしている、とすれば、「秘密も嘘も」は?ハクの「きっとまた会える」が嘘?
別の読みでは、「ハク」とも「饒速水小白主」とも違う名を知ってるような気がして、人の子としての名を思い出そうとしてる…でも千尋は兄だと知らない、ハクも両親も優しさから秘密と嘘を守っているから、ともとれる。
考察しても真相は不明、宮﨑監督の中にしか答えは無いが「何でもかんでも説明したくない」そうなので、どちらともとれるふくみを残したまま、映画の切ない余韻にひたる。どちらもあり得るから、より話が広がり深みを感じられる。例えるなら、俳句や詩にかけ言葉で2重3重の意味がこめられていることに気づくように。
そしてまた、何も理解できなくても、なんだか妙に印象に残る不思議な作品…
そんな、まさに「計り知れない水の深さ=千尋」がこの作品の魅力。