「盲人が盲人の手を引くと・・・。」人生は琴の弦のように Chemyさんの映画レビュー(感想・評価)
盲人が盲人の手を引くと・・・。
チェン・カイコーの放つ大人の寓話。本作を物語として語るならば「昔々の中国に、盲人の旅芸人がおりました。」という出だしになるに違いない。過去でも現在でもなく、ファンタジーでもリアリズムでもない本作は、広大な中国の砂漠を舞台としながら、そこはまるで天空の地のような、我々には手の届かない場所のように見える。あまりに広い荒涼とした砂漠や、人間を寄せ付けない自然の驚異を見せつける黄河の瀑布などが、“ここではないどこか”、しかし“どこでもないここ”という抽象的でありながら、どこか懐かしい感覚を我々に与える。この舞台こそが、本作を寓話として印象付けるゆえんであろう。さて、そんな寓話的舞台の中、「盲人が盲人の手を引くと、二人とも穴に落ちる」というように、主人公である2人の盲目の旅芸人は、肉体的な盲目とさらに精神的な盲目さによって、厳しい人生の穴に落ちる姿が描かれる。琴の音と歌声で、戦いを鎮める力を持つ“神”と呼ばれる年老いた師匠は、「千本の弦を弾き切った時に、琴の中に入っている目を治す処方箋を取り出せる」という言い伝えを信じて、盲目的に琴を奏でる。徒弟である青年は、初めて知った恋に盲目的に身をまかす。この2人の盲目的精神が悲劇へと導くのだ。盲目的に何かに没頭することは決して悪いことではない。そこに1つの「希望」を託しているからだ。しかし、本作の2人の場合、それ以外の「希望」を見出せなかったことによって悲劇に見舞われるのだ。それはもしかしたら、肉体的に盲目であるが故に、文字通り周囲が見えないことが大きく関わってくるのかもしれない。「青い空ってどんな感じ?」目の見える我々には、それを彼らに伝える術もない。青い空、大黄河、黄色い大地、愛する人の顔、これらが見えていたならば、その他様々な希望も見える。逆に、隣人同士で争う姿、憎しみの眼差し、愛する人の死、これらが見えないからこそ、心洗われる歌(純粋な心)を奏でられるのかもしれない・・・。この寓話のメッセージは「人を信じるな」ということではなく、「希望は希望だけにしておけ」ということでもなく、「琴の弦のように切れても切れてもまた繋ぎ、永遠に歌声を絶やすな」ということなのかもしれない。つまり打たれても打たれても立ち上がれということだろうか?亡き師匠の形見を背負って、たった1人、村を後にする盲目の青年の先にある、長い長い道の先にある“何か”が、今度こそ青年に“見えて”いるのかもしれない。