「痛切の極み その表現力に脱帽」サマリア よしたださんの映画レビュー(感想・評価)
痛切の極み その表現力に脱帽
2014年最後の一本。
少女売春をテーマにした物語かと思っていると、途中から様子が違うことに気付く。これはそのような社会の表層的な問題を扱っているのではなく、宗教的とも言える人間の原罪とそのつぐないについての話なのだ。
父親が娘ヨジンに語る「海外トピック」はいつもキリスト教の奇蹟に関係するものである。二人の住む部屋にはなぜかキリストの肖像を思わせる絵が掛けられている。そして、タイトルの「サマリア」は聖書にも登場する古代パレスチナの地名である。
ヨジンは友人チェヨンの代わりに売春相手を探し、チェヨンの仕事中は見張り役を務める。しかも売春相手の記録と受け取った金銭の管理までも、待っている側のヨジンが行うのだ。
そこまでこの売春に協力していながら、チェヨンが相手の男の職業について語ったり、その男を好い人だと言おうものなら、ヨジンは激しく反発するのだった。しかも、金を稼ぐ目的はヨーロッパ旅行の資金集めなのだが、父親の海外トピックを楽しみにしていて、海外に興味を抱いているのはどうもヨジンの方に見える。
ある日、ついに警察に売春の現場を押さえられ、逃げ切れなくなったチェヨンは窓から飛び降りて死んでしまう。
まことに不思議なことに、重体のチェヨンの親の連絡先も分からないような状況なのに、チェヨンの願いの為に、ヨジンはチェヨンが好意を抱いた相手の男を迎えに行くのだ。
ここまでの二人一組の少女売春の話にはかくも合点のいかないところが多い。他のレビューでも言及されているが、ここに至って、これまでの二人組の売春は、一人の少女の葛藤を二つの人格で語っているのではないかと思いはじめた。
つまりヨジンとチェヨンの二人の存在は、同一人物の二面性について物語っているのではないかと。チェ・ヨンとヨ・ジン、この二つの名はアナグラムではないのか。韓国語は分からないが、アルファベット表記された名前を並べるとその印象を抱く。
少女に金を払いセックスをする男たちへの気持ちも、ヨジンとチェヨンとでは正反対だ。嫌悪感や怒りを感じているヨジンに対して、チェヨンは、彼らも普通に職業についていたり人間的な温かみがあることを知っている。これも、金で自分の体を好きに弄ぶ汚らわしい男が、ひとたび裸になればごく当たり前のやさしさを持ち合わせた寂しがりやに過ぎないことに、一人の少女が戸惑っているアンビバレンスを表現しているのではないか。
この少女の売春行為はある一人の客へ恋心を抱くことで終止符が打たれる。お金のための行為をやめたことで、ヨジンの中にいたチェヨンは消える。もはや売春を肯定する存在はヨジンの中にはいなくなったのだ。だからヨジンの中ではチェヨンは死んだことにされる。
代わりに心の中を占めるものは、愛する人との行為を金銭を得るための手段としてしまったことへの後悔である。彼女はこの後悔から逃れるために、売春を繰り返してきた事実を取り消したいと願う。そこで過去の相手に会ってお金を返すという行為が繰り返さるようになるのだ。
悲劇はこの取り消しのための行為を父親が目撃してしまうことから始まる。私たちがこれまで見てきたように、ヨジンは売春の罪を償う行為をしているのだが、父親の目にはヨジンが売春そのものを行っているようにしか見えない。
父親の憤りは、娘に対してよりも、いい年をした分別のあるはずの男たちへ向かう。相手の男たちは、ある者は自死を選び、またあるものはこの父親に痛めつけられる。そして、それが行き過ぎて父親は一人の男を殺してしまうのだった。
娘と同様に大きな罪を背負ってしまった父親はヨジンと二人旅に出る。
どのような奇跡が起きればこの二人の罪が消え去るというのだろうか。車に乗った二人は美しい山村にたどり着く。もう二人が街へ帰って元の生活に戻ることなどないだろう。静かで美しい映像に観客は二人の人生の終焉を予感する。
ところが山道で車が立ち往生したとき、邪魔な石を取り除いて前に進めるようにしたのは娘のヨジンだった。道を誤ることのないように見守るべき父親を、人生の道を誤った娘が助けてくれたのだ。
その娘に父親は車の運転を教えることにする。黄色いペンキを塗った石で車線をかたどって。そして自らは同僚の刑事に自分の犯した罪を話し、迎えに来るように伝える。
河川敷の石とぬかるみにタイヤをとられて、難渋しているヨジン。そこへ警察の車が来て父親を連れて行ってしまう。父親が連行されたことに気付いたヨジンは慣れないハンドルを切りながらそれを追う。オフロード仕様の警察車両はすいすいと砂利道を走っていくが、ヨジンの運転する車はなかなかまっすぐに進まない。
この様子を非常に高いところから俯瞰するショットに、突然父親に置いて行かれた娘の哀切がみなぎっている。2台の自動車を擬人化して、親を追うよちよち歩きの子供のように、この悲しい父子を対比させているのだ。
この痛切極まりないシーンに、このくらいのテクニックで泣いてたまるものかと観客が抵抗してみたところで無駄だ。ヨジンの運転する車のフロントガラスが雨でずぶぬれになっている次のシーンで、観客はキム・ギドク監督の仕掛けに叩きのめされることになるのだ。もはやヨジンも父親も画面には映っていないのだが、確かにヨジンが泣きじゃくって父を追いかけているのだ。人間が追いかける演技をするのではなく、自動車にその芝居をさせたことで、静謐なスクリーンの中に、観る者を哀しみの果てに連れ去る大きな力が宿る。
この年の最後にとても素晴らしい一本に巡り会えた。