初恋のきた道のレビュー・感想・評価
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一目惚れの「初恋」と、死別の「葬列」。 ふたつの「道」を対にして語られる傑作。
僕の親友が
この映画の無料再放送をYoutubeでやっているのだと 僕に教えてくれた。
その友人の言うことには
「きみのご両親の出会いを彷彿とさせるのだ」と。
え?どれどれ?すっかり内容は忘れてしまっていた本作だけれど、
それで大昔に観て以来の、久方ぶりの鑑賞と相成ったわけだ。
うちの父は教員だった。
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中国の奥地。陸の孤島、河北の小さな村。そこは三合屯村。
新任教師の到着と、校舎の建築。
けっして豊かとは思われない暮らしの中での、村人達の暮らしが慎ましく、そして人間味に溢れている。
おぼこ娘ディの実家は、じつに粗末で何にもない部屋だ。その壁に小道具として映画「タイタニック」のポスターが貼ってあることに気付いただろうか?
それぞれ、出逢いの運命と、強い絆の物語だ。
ディ=チャン・ツィイーが18歳の設定というのも、どうなんだろう?
あの三つ編みの おさげ髪と、ぎこちない走り方。照れ笑いの幼ない様相からして、小学高学年か、せいぜい12歳くらいにしか見えないのだが。
でも、そこが”うぶ“で大変良いのだろう。
遠くからお互いを見やるルオ先生とディ。だからカメラも遠く離れていて、望遠レンズで彼らの表情を撮っているのだ。まったくもってカメラ使いが上手い。
美しい村の風景に乗せて、二人が惹かれ合ってゆく姿に、太陽の光がキラキラと輝いていて、逆光がまぶしい。
観る側も ときめかずにはいられない導入だ。
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【出逢いと別れの「道」】
・僕の妻になってくれた人は
「ビビビッ」と来て、一目惚れしてくれたらしい。いつまで経ってもまったくそれに気付かない鈍感な僕の事を、本作のディのように行く先々で待ち伏せをして、満面の笑みでずっと追いかけてきてくれた人だった。
20年追いかけてきてくれたが、とうとう最後まで振り返らなかった馬鹿が
このレビューを書いている。
・明石家さんまは、
このチャン・ツィイーのポーズの真似=瞬間芸がとても上手くて、あの頃、世の中の大勢が「この純情な映画」を観、そしてハマっていたことを思い出した。
そういえば娘ディは、若い頃の大竹しのぶにちょっと似ているかもしれないね。
明石家さんまがその瞬間芸をやると、客席は大いに笑うのだが、なぜだろう。同時に泣きたくもなる。
人の別れの理由ワケは、
死別であったり、夫婦関係の解約であったりと、個々さまざまだ。
だから出逢いの物語は、同時に別れに続く長い人生の物語の始まりでもある。
恋愛映画を観ると、恋の終局も同時にそこに見えてくる。
だからチャン・イーモウ監督は、ルオ先生と村娘ディの初恋を
離別の重たさと対で表現したのだ。
だから、この映画は重厚で、浮ついていないのだと感じる。
僕は正月に帰郷したばかりだ。
僕の父母も、人生の最終盤だなぁ。
老人ホームで、長く仕舞ってあった結婚指輪をその指にはめて、微笑んで見つめ合う両親がそこにいた。
中国のフェリーニ。
赤い髪留め。
「初恋のきた道」
いい邦題だ。
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この道を
二人で行けば
花野かな
(友人からもらった句)
·
チャン・ツィイーの宝石の様な時代を切り取った良作
父と母の物語を語る
良い人しか出てこない、厳しさの中の優しさに染みる映画。
”初恋”の映画と聞いていたので、日本でのJKもののような、韓国映画にあるような恋のさや当ての映画かと思っていたら、全然違った。
ひたすら、素朴な一途な愛が主旋律。
ベースに、教育格差、文革とか、村の現状(若者・壮年がいない≒現金収入が得られずに出稼ぎとして流出、今はまだ子どもがいるけれど、やがて過疎化…)等の社会情勢。
そして父への想い、母への想い、子への想い、人生のルーツがテーマ。
前半、厳しい状況が描かれる。
吹雪。医療機関のある町からは車で行き来しなければならない無医村地帯。学校も建て直す予算がなく、教員も一人きり。と言うことは、子どもはいても数十人か。若者・壮年のいない村。喪主の望み通りの葬式ができない苦渋が描かれる。
中盤、過去パート。父と母の恋物語となる。
ひたすら甘いパート。白樺の黄金に輝く紅葉をバックに、ディのキラキラ輝く表情、全身で嬉しさを表す動きが映える。教師が来てくれたことを村全体で喜ぶ姿。ルオ先生の、『二十四の瞳』を彷彿とさせる師弟関係描写も胸に響く。背景にのんびり羊の群れが動き、牧草と森と言う舞台も活きている。画面に余白が多く、大きく深呼吸したくなり伸びやかで思いが空へ飛ぶようだ。
現代日本に置き換えるのなら、中学生の初恋。ディのようなキラキラした目で、憧れの人を目で追う少女たち。出会えそうな場面を探って待ち伏せ。眼鏡男子にきゅんとするように、知性を感じさせる男子に憧れる女子も多い。
ストーカーとは違う。相手(ルオ先生)が嫌がっているのを知りつつ、自分の想いを押し付けるのはストーカーだが、ディとルオ先生の場合は。ルオ先生は「待ってて、帰ってくる」と言ったのに…。
そして、終盤。
現代に戻り、葬式はどうなるのか。母と父の願いはどうなるのか。学校の建設もどうなるのか。
過去パートを、華やぎつつも落ち着いたという不思議な配色のカラーで映し、
現代のパートを白黒でという、皆が絶賛の演出が活きる。
☆ ☆ ☆
☆ ☆ ☆
≪以下、若干ネタバレあり≫
この映画には、良い人しか出てこない。
ディの恋を邪魔するのは、当局だが、それも言葉で表現されるだけ。ルオ先生が帰ってこられないのは、家庭の事情としても成り立つくらい。
「身分が違う、諦めな」というディのお母様は、ナイスな質問をルオ先生にしたり、ディの恋心をそれとなく伝えたりする。そして極めつけが、「これくらい手元に残してあげたい」と、買った方が安く済むどんぶりの修理を頼む。
それを受けて、「それじゃあ、大切に直さなきゃ」という瀬戸物職人。
「母(ディ)の想いが村長に知られてしまった」から「村全体に知られてしまった」と言うが、噂話、邪魔するシーンは出てこない。
ディの命の危機には、村人が心配して、ルオ先生につなぐ。
ルオ先生が戻ってきたとき、ディが学校に赴くと、授業中にも関わらず、村人がルオ先生に声をかける。
皆ディのことを大切に思っている。そして、ルオ先生のことも大切にしている。
そんな思いを受けて、母の願いを叶えようとする息子。父と母への想い。
そのやりとりを見ているだけでも、この親子関係が想像できる。
お金で解決かと思いきや。
ボランティア。師への想いがあればこそ。新聞に訃報が載ったのか。口伝で広まったのか。
近年の日本では、教師に対しての敬意等が地の底に落ちた感があるからこそ、このシーンが胸にしみて、涙がにじみ出てきた。
教育への想い。過去パートでのルオ先生への態度。学校建設時の皆の働き。日本での教育はすでに飽和状態で、それにうんざりした子どもたちが不登校状態になっており、保護者からのカスハラに苦慮しているが、発展途上国などの地域では、”学校”への想いが溢れている。何をどう学ぶか。ルオ先生が作ったという教科書の文言が沁みる。基本、人間て、学びたいものなのだ。だが、自ら学びに行くか、ロボットのように強制されて学ぶかは大きな違いであろう。
40年間、教育に捧げた人生。それが、こんな形で実を結ぶのなら。なんと教師冥利に尽きることだろう。
ラスト。母と息子の会話。息子の配偶者への心配。こんな父と母の物語を見せられた後では、母の想いが素直に響く。
そして、もう一つの、父の、母の願い。父の軌跡を追体験する息子。この両親にして、この子あり。原題が生きてくる。
一見、素朴な淡々とした映画でありながら、人生と家族を考えてしまった。
美しいけどちょっと切ない〜
皆さんが書いておられる通り、
チャン・ツィイーのかわいさですべて許してしまう様な作品。
笑顔も素敵ですが、あの走り方〜
あの地方の人はみんなあんな走り方をするのか?
それとも当時のチャン・ツィイーが編み出した走り方か?
腕を殆ど曲げず、振らず、腰から上を前後に振る様な走り方
まるでR2D2が二足歩行してるみたい。
まあ、其の走り方でありながら、後ろ姿に全面に
憧れの先生から声をかけられた嬉しさと恥ずかしさが溢れてて
超可愛い名シーンだと思う。
田園地帯の秋の風景も、雪に埋もれた冬の景色も
其の中で躍動するチャン・ツィイーの赤い服も
兎に角美しい〜〜!!
可愛く、美しけど、田舎の農村は貧しく
古き良き習慣や村人達の繋がりは
今はもう失われてしまったかも知れない。
急激に変わりゆく中国をなんとか画面に留めようとした
生真面目な監督の気持ちが切ない。
美しい!
美しすぎる物語の裏に流れるはしたたかな打算か
中国内陸部に秘匿された風光明媚な自然風景を確かな演出と撮影技術で余すことなく披露してくれるチャン・イーモウ。その手腕には素直に脱帽するものの、中国国外からのオリエンタリズム的な視線を内面化したうえで「ウケる中国像」を敢えて演じている感は否めなかった。第五世代以降のジャ・ジャンクーやフー・ボーやビー・ガンに慣れ親しんだ身からすると、劇中世界に描き出される「中国」があまりにもイノセントすぎて逆に不気味だった。
また現在の時間軸と過去の時間軸とを色彩の有無によって際立たせるという手法もやや単純なのではないかと思う。ラストシーンでの現在/過去のめくるめくモンタージュをより効果的に見せたいという意図はわかるのだが、あまりにもそれが前面化しすぎていて興が醒めてしまった。
とはいえ反右派闘争等の歴史文脈に物語を難なく重ねていくナラティブの強さはさすがといえる。国定教科書ではなく父が書いた文章を音読するという感動的なラストシーンもよくよく考えるとかなり政治的だ。こういった描写にかけては『黄色い大地』『覇王別姫』のチェン・カイコーのほうが数段上手かと思っていたが、チャン・イーモウもすごかった。まあ北京電影学院の同期なんだから当たり前といえば当たり前なのだが…
無垢な恋心の美しさは古今東西かわりません。
どうにも止まらない
『女はつらいよ』なんだけど、可愛いから初恋も成就するって事♥
スターリンの引き起こしたウクライナに於ける人為的大飢饉の事は、今や誰でも知っていて『ホロドモール』と言う。コルホーズによる経済の五カ年計画の歪による飢饉だ。
さて、中国に於けるこの映画(カラー部分)のこの時代は、文化大革命の6年くらい前の話。そして、同じ様に大飢饉が中国の各地で猛威を振るっている。まだ、歴史的な検証はされていないが、ソ連と同様の原因である可能性は高い。
少なくとも、この映画の様にのんびりした時代ではない。また、
この女性主人公はどう見ても、田舎の中国人には見えない。リップクリームとファウンデーション丸出しの化粧には閉口するのみ。要はアイドルを使ったプロバガンダ映画だと思うが、名作には到底思えない。日本の昔の映画にこう言った映画が多かった。これでもペルリン映画祭とはね?
女性がこの映画見て、とう思うか聞きたいものだ。男目線な映画だと思うが。
なお、文化大革命と中国の大飢饉含めて、5000万人位亡くなっている。何が原因か分からないが、当時6億人位いた中国人の12人に一人が亡くなっている。
タイタニックの映画ポスターが光っていた。つまり、中国も脱亜入欧♥なんだ!
このおばあちゃん1940年生まれだから、まだ59歳だし、亡くなった旦那は61歳だから『PLAN75』まで、まだ15年以上ある。勿論、中国も一人っ子政策で、今持って、日本と同じ様に少子高齢化な社会だ。中国の産児制限が現実だった事を考えると、中国なら本当にそんな事考える?!イヤイヤ、中国人は反論するだろう『そんな事考えるのは日本人だけだよ』って。どちらの国であっても、実現されないだろうが、そんな事考える事自体が、脱亜入欧には程遠いって事だ。
たしかに名作。邦題も良い
中国の寒村、その美しい風景の中で繰り広げられるピュアなラブ・ストーリー。
あらゆる欲にまみれて汚れきった自分にはちょっと気恥ずかしく感じるところもありましたが、それでも「これは良い作品だな」と素直に思いました。
あまりにもいい話すぎるのだけれど、監督の資質によるものなのでしょう、こういう物語にありがちな、わざとらしさというか、「臭み」のようなものがほとんどなく、抵抗なく映画の世界に浸ることができました。
母親の心理状態を表現した、モノクロとカラーの映像を使い分けた構成もニクイ。
原題『我的父親母親』・英題『THE ROAD HOME』を『初恋のきた道』とした、配給会社(?)のひともエライ。いい邦題だなぁ。
「好き」と言わずとも
DVDで鑑賞(吹替)。
父の死の報せを受け、故郷の母の元へ帰った息子が、村の語り草になっている父と母の恋愛を紐解いていく…
チャン・ツィイーのかわいさが爆発していました。教師への初恋に揺れる純粋な乙女心を体現し、「好き」と云うセリフを一度も言っていないのに、ちょっとした仕草や行動から想いが明確に伝わってしまう素晴らしい演技だなと思いました。
初恋も、喜びも悲しみも、全て連れて来た一本道を、村の伝統に従って愛した夫の亡骸と共に歩いた母と息子…
過去のシーンがあったことで伝統の葬儀に拘った母の想いが明らかになり、息子の心境の変化へ繋がる構成が見事…
誰しもが共感出来るであろう初恋に思いを馳せ、家族の絆についても考えさせられる、心温まる素敵な作品でした。
自分の感想 秋のあの中国の村の景色とチャン・ツィイーの赤色の服、あ...
【”人、生を受けたら志あるべし・・。”男として、ここまで女性に想われたら本望だろうな、と思った恋物語。若きチャン・イーモウ監督の気概が伺える作品でもある。】
ー 1958年、中国の農村地帯。文盲のヒロイン、デイを演じたチャン・ツィイーの町から来た当時、先進的な思想を持っていたルオ先生への思慕する気持ちが現れた、初々しい笑顔が忘れ難き作品。ー
・物語は老いたデイの息子が、父の訃報を聞いて、久しぶりに村に戻るシーンから始まる。
・デイは、愛する夫の亡骸を、村の慣習により、人力でお墓まで運ぶ事を譲らない。そして、亡骸を包む織物を古い機織り機で織り始める・・。
■ここから、物語は若きデイ(チャン・ツィイー:今や国際的な女優であり、美しさは健在である。)が、村にやって来たルオ先生の容姿と、村の子供たちに教える素敵な声に恋をし、一生懸命に彼のために食事を用意する姿が描かれる。
そして、劇中では敢えてハッキリとは描かれないが、ルオ先生が反共産思想を持つ事により、屡、町に戻される事が描かれる。
だが、そんな事情を知らないデイは、雪降る中で、先生が帰って来る日を待っている。例え、高熱を出そうとも・・。
・そして、雪舞う中、各地から訪れたルオ先生の多くの教え子たちが、棺を担ぐシーンは沁みる。
- ルオ先生が、如何に生徒達に慕われていたかが、一発で分かるシーンである。
・更に、大勢の寄付金により、学校が新しく建て替えられることが決まり・・。デイの息子が一日だけではあるが、父の意思を継いで教壇に立ち、父と同じ良く通る声で、生徒に教鞭を振るうシーンも心に残る。
- 老いた、デイが亡き夫に掛ける言葉も心に沁み入る。-
<近年のチャン・イーモウ監督や、ジャッキ―・チェンの中国を統べる男に阿る姿勢を批判する人が多数いるのは承知しているが、私は彼らが映画文化(ジャッキ―・チェンの場合、一国二制度を蹂躙するプーさんに対し、香港映画文化を守るためだと信じたい。)を守るために、一時的に阿る姿勢を取っていると信じたい。
何故なら、若きチャン・イーモウ監督は今作を始めとして、当時反共産思想を滲ませた映画を制作していたのだから・・。>
一途な愛を貫く純情可憐な女性の物語に残る出来すぎた創作
女性の一途な恋愛感情に焦点を当てた一方的な純愛物語で、結局男性が望むべきストーリーになっている。アメリカ映画の「タイタニック」が女性のためのラブ・ロマンスとすると、これは男性にとって理想の女性像であり、妻の鑑のような女性を主人公にしている。チャン・ツィイー演じる純情可憐な主人公チャオディが、文盲ゆえのコンプレックスと憧憬から青年教師チャンユーへの愛を貫く原動力になるのは、この時代の中国の田舎ならではの創作ストーリーであるのか。日本の教育体制からは考えられない時代背景である。なだらかな丘が続く自然豊かな丘陵地帯を駆け足で追い掛けチャンユーを見詰めるチャオディの健気さ。四季折々の美しい風景に佇む、このチャオディの姿が全ての映画。それ故にチャンユー側の心情の描写は少なく、ラストのお葬式シーンにおいて多くの教え子が参列する訳も説明不足に終わる。「タイタニック」では、デカプリオ演じたジャックのような男性は世の中に滅多にいないと思ったが、この映画のチャオディのような女性も中々いない。独身の時ならもっと感動したかも知れないが、中年過ぎのオジサンの経験から言わせてもらえば、話を奇麗に作り過ぎではないか、と正直な感想である。
珍しく良い邦題(原題は『我的父亲母亲』~私の父と母~)
①何をさておきチャン・ツィイーが可愛い。それにつきるほど可愛い。若い頃の薬師丸ひろ子の笑顔に通じるところもあるが、モンベを穿いていても綿入れを着ていてもあの可愛いさはやはり尋常ではない。②ラブ・ストーリーというよりも乙女の一途な想いをこれでもかと描いた映画だと思う。ただ好きな人を見ていたい、そばにいたい、声を聴いていたい、ご飯を作って食べてもらいたい、それだけをただひたすら描いている。そういう意味では逆に珍しい映画ではないだろうか。③乙女の一途な想い・行動の描写が前景とすると、背景となるのは、生涯一寒村の一教師であった男と、その男を生涯支えた女との、世界の片隅の名もない夫婦の物語。そしてその父と母との若き日を思い出しながら、二人の願いを最後に叶えてあげる息子の姿。良い話ではないか。
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