きみに読む物語のレビュー・感想・評価
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少し前の高齢者たちの気概
私は、「タイタニック」と同じく、安定=お金を選ぶか、愛を選ぶかという究極の選択をした女性の物語だと思う。
監督の実の母であるジーナ・ローランズが主役みたいなもの。
見る人を選ぶ作品だと思う。意見は分かれるだろう。人類が全員お金や名誉ではなく「愛」で人生の選択をできるなら世の中から不幸はかなり減るかもしれない。
痴呆症の問題、介護施設のことがベースにあり、第二次世界大戦を挟んだ前後二つの時代、さらにその50年後の三つの時代が描かれる。
全く大作ぽくないはないが、6、70年間を描いているという点で大作である。
そばにいてくれるだけでいい by フランク永井
アリー(レイチェル・マクアダムス)は高校の夏休みに家族と別荘に来ているお嬢様。ノア・カルフーン(ライアン・ゴズリング)は地元の材木商で働く青年。若者たちとバカンスを楽しむアリーを街中で見かけたノアは猛アタックを仕掛ける。デート中のアリーの乗った観覧車に飛び乗り、交際をせまる。軽くいなされると観覧車の車輪の鉄棒に飛び移り、デートしてくれないと手を放すと脅迫する。ゴズリング、顔に似合わない強引さ。幼顔のレイチェルがベーリーキュート。屈託のない笑顔、えくぼが素敵。ふたりは深夜まで遊び呆けるようになっていきます。無邪気にかつ大胆に振る舞うふたりを見守る家族。ひと夏の恋には寛容な感じ。アリーのお父さんは魔法使いサリーちゃんのパパみたい。ノアはウィンザー農園の住人のいない古いお屋敷にアリーを誘い、いつかこの土地を手に入れて、家を改修する夢を話します。アリーは白い家がいいと言う。向かい合って立ったまま、脱いでゆく様はなんか高校生無頼控を思い出してしまいました。帰りが深夜になったアリーにノアは相応しくないと言う両親と言い争うアリー。それを聞いてしまうノアは冷静だが、思いっきり取り乱してしまうアリー。アリーの両親はふたりは早く離して、諦めさせようと予定より一週間繰り上げて次の日の朝、別荘を後にしてしまいます。アリーは材木工場に寄って、ノアの親友フィンに伝言を託す。「ただ一言、愛しているとだけ伝えて」
ノアは一年間365日毎日手紙を出すが、返事はなしのつぶて。アリーの母親がすべて隠してしまっていたのでした。ノアと親友のフィンはアトランタに着いた出稼ぎに出ますが、第二次世界戦争が始まり、ノアとフィンは徴兵され、北アフリカの同じ隊に配属になります。しかし、フィンは戦死してしまいます。アリーはニューヨークの大学に進学し、看護学を専攻します。傷ついた兵隊さんを世話していながらも、ついノアを思い出してしまう。全身ギプス固定なのに、アニーをデート(散歩)に誘う兵隊さんがいます。「治ったらデートしましょう」とアニー。看護婦姿のレイチェルも素敵。その後何年かして、街でアニーに声をかける青年がいます。「治ったよ~」ビシッとスーツを着こなして、高級車に寄りかかって。これがハモンド財閥の御曹司ロン・ハモンド。婚約話がトントン拍子に進む。戦争が終わって、ヨーロッパ戦線から故郷に帰ってきたノア。たった一人のお父さんは家を売って、ノアの復員兵手当とあわせて、あの農場を買おうと言います。ふたりで、古い屋敷を修理しますが、ほどなくして、お父さんは死んでしまいます。ニューヨークに出てきたノアはバスの中から、街を颯爽と歩く着飾ったアリーの姿を見つけてしまいます。アリーが新聞に載ったノアの白い家の記事を見て、ノアを訪ねて行く。
ひとりになったノアは時々戦争未亡人マーサ・ショウと夜をともするような生活。マーサは感じていた。自分の中に他の誰かを見ている。見透かされていたノアは正直に謝ってしまう。それでも、このふたりの関係は思い遣りに満ちていたと思う。マーサはアリーとノアを見て、私もこれからは本気で誰かを愛せそうと言う。切ないね。この場面はなかなか好き。
アリーの母親がアリーを追ってくる。工場で働く初恋の相手のおじさんをアリーに見せる。このおじさんが母親の初恋の人。ノアが出した365通の手紙をおいて、正しい選択をしてと言い残し、車で立ち去る。カヌーボート、無数の白鳥、雷雨の中でのキスシーン。
2日間の合瀬を過ごすことに違和感を感じる人もいるだろう。彼女の行動はただケジメをつけたかっただけだったかもしれないし、揺らいでいた自分がほんとうにわからなかったからかもしれない。ノアは40年後の自分たちを想像して欲しい。君のそばに居たい。と、はっきり言うが、アリーは引き留めるノアを振りほどくように帰ってゆく。しかし、幾日かして、アリーは再び、ノアのもとをボストンバッグを2つ持って訪れる。
さて、語り部のデュークが認知症のアリー・カルフーンに若き日の物語を読んであげる。子供たちはパパ帰って来て。何も思い出さないママにそこまでしなくてもと言うことは、ちゃんとした結婚生活があったに違いない。実の子供にも他人様の振る舞いのアリー。さらに、アリーはアリー・ハミルトンからアリー・カルフーンになっているので、デュークはノアだと確信。デュークは愛称なのでしょう。ジョン・ウェインだってデュークなんだから。
デュークはほんのいたずらで、「アリーはロンと末長く暮らしました」と話すと、一瞬、違和感を覚えて、それは違うと思い出す。私はアリーで、あなたはノアだとはっきり思い出す。この物語は元々アリー・カルフーン著で、これを読んで聞かせてと遺言のようにしたためたもの。自分で書いて、すっかり忘れているアリー。しかし、その数秒後にはデュークが誰だかわからなくなり、興奮して、鎮静剤を打たれてしまう。その後、デュークは心臓発作にを起こして、救急病院に搬送されてしまう。それをぼんやりと見送るアニー。回復して、施設に戻ってきたノア。アニーに会いに夜中に別の病棟にきたノアを当直の看護師はコーヒーを飲みに階下に行くけど、馬鹿な真似はしないでねと言って、見過ごすのだ。こういうシーンが堪らなく好きだ。翌朝、ふたりは手を繋いで、ともに息絶えていた。「私たち一緒に死ねるかしら・・・・おやすみなさい」・「大丈夫だよ」がアリーとノアの最後の会話となった。
デューク役のジェームズ・ガーナーは実際にこの映画の10年後に心臓発作で帰らぬ人になってしまった。ジーナ・ローランズはまだご健在。
「43年後のアイラブユー」を観賞するにあたり、この映画を見直す必要を感じました次第です。
アメリカは歴史が浅いからか、身分の格式の差はすなわち、お金があるかないかに寄るみたいです。実に分かりやすい。
男って本当に一途な人は一途ですね。女はきれいに忘れてしまうのに。
この映画のあと、ゴズリングとレイチェルは付き合います。すぐに別れるけど。そのすぐ前には完全犯罪クラブで共演したサンドラ・ブロックと付き合っていたゴズリング。ちょっとね~映画とギャップがありますなぁ。しかし、ライアン・ゴズリングはその後も着実に仕事も私生活もステップアップを続けてゆくのでした。お・わ・り
恋愛映画といえば!
恋愛映画でおすすめを聞かれたら、
「きみに読む物語」か「アバウトタイム」と自信をもって答えます!
(レイチェルマクアダムス好きというのもありますが!)
歳を重ねてからみると、
本当に愛するってこういうことなんだなあと学べたり、アリー母や婚約者ロンの目線で見れたり・・。
そしてとにかく名言が多い作品です!!
✔︎ノア
やっと再会できたアリーに語りかける言葉は、
いろんな映画の中でもかなり好きな台詞です。
「うまくやるのは難しい。努力が必要だ。
でも俺は努力したい。ずっと君が欲しいから。一緒にいたいから」
育った環境も性格も違う他人同士なのだから、
ただ好きなだけじゃうまく行かないこともたくさんある!
だからこそ、
「それでも頑張りたいんだ!!」
という気持ちが大事なんですね。。
あと、ライアン・ゴズリングのアドリブも入ったこの台詞も好き。
「30年後、40年後、誰といたい?それが奴なら行け!
それが君の望みなら耐えていける。
無難に選ぶな。
人のことは考えるな。俺も奴も両親も忘れろ。
君だよ、問題は。きみはどうしたい?」
出会った頃もノアはアリーの趣味を聞いたとき、
「いや親が、じゃなくて君は何するのが好きなんだ?」みたいなことを言ってましたよね。
いつだってアリー本人の意志を尊重して、
受け入れようとしてくれる・・
こんな愛し方ができるのは本当にかっこいい!
✔︎婚約者ロン
選択肢は3つあるが、すべて君を失ってしまう・・
って、なんともつらすぎて記憶に残ります。
✔︎アリー母
娘の幸せより、家柄重視なのか!
と見ていましたが、
ラストで自分の過去の話を打ち明けながら涙する姿に、後悔とか現実とかこの人もいろんなものを背負いながら娘を想ってるんだなあと、胸がじーんとなりました。
すべてが粋。
・自分のまわりの世界はすべて優しいということを描いてる
・どんな決断をしても、周りは絶対許してくれるんだよと教えてくれる
・アリーの母の実はめっちゃ理解ある人という裏切り方がずるすぎる
・手紙取っといてたんだね...(泣)
・老人ホームの受付の優しい嘘が粋
(コーヒー入れに行ってない)
・愛の力で富豪になってるノア
・ラストカットで鳥になったふたり
・エンドロールへの移り方が神がかってる
・登場人物の弱さと甘えがふんだんに描かれているからすっと入る
・観客は老後のアリーの視点で映画を観ることになる撮り方が芸達者
・アリーの天然さは周りから最期まで愛され続ける人生
・天然であることを受け入れるとアリーのような人生を歩めるかもね
アリーがノアを思い出す所から忘れるところのシーンで ティッシュが1...
アリーがノアを思い出す所から忘れるところのシーンで
ティッシュが10枚は必要です
現代、情熱的に盛り上がった激しい初恋が
この物語のようになることは現実的じゃないので
夢物語だけど、良い話だよね
デュークは誰?
レビューでは、デューク=ノアとしている方が多い。
でも、どうして名を変える?愛の記憶を取り戻したいのに?
アリーは誰と結ばれた?読み聞かす物語では、ノアと結ばれたようだけれども、実際は?
ノアと結ばれて今に繋がるなら、夫婦としての時間が描かれていないのはどうして?デュークの子や孫とアリーとの絡みがないのはどうして?アリーが子や孫と会ってパニックを起こすから近づかないようにしているの?でも、それって…。夫婦・家族としての時間の積み重ねこそが愛の軌跡だと思うのだけれどもな。夫婦・家族の時間のラッシューアルバム写真とかーでもあれば説得力があるのに。毎回、出会いから話すので、家族の時までたどり着けないのかなと。
それとも、激しい恋をしても結ばれず、この療養所で再会して、恋していた時間を思い出してもらうために読み聞かすのなら、夫婦としての時が描かれていないのは解る。でもそれはそれで、複雑。アリーを一途に愛した男。アリーを優先して、家族をないがしろにする男…。
アルツハイマー型認知症。他のタイプの認知症。この映画が公開されたころより、今はいろいろ解ってきたけれど、愛しい人・家族に「あなた誰?」と言われる辛さ・悲しみ・やりきれなさは永遠に変わらないだろう。
恋の物語。
周りの人なんか関係ない。たとえそれが自分の子の願いでも。そんなある種の傲慢さがなければ「一人の人を愛し続けた」なんて言えるような状況にはならないんだろうなあ。
そんなにしてまで貫き通した恋なのに、相手の心に自分が映っていない。なんて残酷な物語。
宣伝に「病を克服」とあるけど、それはない。この映画が公開された当時から認知症のケアの中に回想法というのがあって、昔の音楽とか写真・物品とかを手掛かりに記憶を(一時的でも)呼び戻せることは、関係者ならすでにやっている。だから、私としては、記憶が戻った瞬間より、再び忘れられてしまった時のデュークの表情の方が切なくて、切なくて、涙が出た。
とにかく映像が美しい。ロマンチックの極み。
どの場面もわが身をそこに置き換えて、ロマンチックなシチュエーションに酔いしれたくなる。CG使ってこんな場面を再現できるアトラクションができたら行ってしまうのだろうなあと思う。恥ずかしいけれど。
ボートがスーッと音もなく走る冒頭の河。それをそこはかとなく見つめる品格のある美貌の老婦人。
遊園地。
白鳥とボート。
再会の嵐の場面。
自分の為に作られた家。
etc…。
加えて主演女優二人の美しさ。
若い方はりかちゃん人形かとも見まごうスタイル・ファッション、儚げなんだけど親しみやすい笑顔。おキャンすぎる振る舞いには閉口するけど。
老婦人の品格。佇まい。年取ったらあんな風になりたいというお手本。ため息が出る。
アリーの母親もいい。
ノアの物静かなたたずまい。アリーよりも知的に見える。
ノアの父もツボ。
でも、やはりデュークの一つ一つの表情にやられてしまう。
菫の砂糖漬けのような映画。ロマンチックに浸ることが目的なら、お勧めしたい。
原作未読。
監督は、エモーショナルな甘い蜜の描写だけで、すべてをあいまいにする。
鑑賞してから気が付いたが、『私の中のあなた』の監督の作品。
美談への仕立て方は超一流。でも、甘美な夢に本質をあいまいにされる。
だからかえって、愛の本質とはなんなのかを考えてしまった。
愛の名作映画の一つかもしれません
カップルの半分は別れるという離婚大国アメリカではこんなカップルは稀有な部類かもしれない。原作者ニコラス・スパークスが結婚式に来られなかった妻の祖父母を二人で訪ねた折に聴いた二人のなれ初めにインスパイアされて小説にしたそうだ。
それでも26年後には妻と別れてしまったが当時は結婚したてだったので熱いものがあったのだろう。本作はいわば一途な想いがテーマだから嘘っぽくならないように顔の売れていない地味なキャスティングにしたのだろう。逆に言えばチャゼル監督は本作にインスパイアされ愛の別バージョンとして「ララ・ランド」にゴスリングを当てたのかもしれない・・。
ロン(ジェームズ・マースデン)のあげた選択肢3つも、君自身はどうしたいのか?と問うノア(ライアン・ゴズリング)もアリー(レイチェル・マクアダムス)を心底愛していることが伝わってくる、どちらも愛しているし選択はどちらかを傷つける、アリーにしてみれば二度も傷つけることはできなかったのでしょう、なんともはや苦しくとも贅沢な悩みでしょう。
ラストも2パターンあったようです、私は没になった曖昧な方を好みますが・・。
活字のイマジネーションを実写で表現するのは難しかったでしょう、白鳥の湖をはじめ思い出のシーンの数々は映画化ならではの美しさを奏でていました、愛の名作映画の一つかもしれません。
君が鳥なら。
アリーとロンが海に行ったシーンで
鳥と呼んで!鳥にみえる?としつこく言うアリー。
私が鳥になったらあなたももちろん鳥よね??と聞いた時に君が鳥なら。と返すロン。
ラストを見た時にこのシーンを思い返してグッときてしまった。
この映画の展開は読もうと思えば読めたし、大体こうなるんだろうな、最初の読み聞かせの時点でこうなのだろうな、と察していた部分もあった。
だが、だからなんだ、というくらいいい意味でたくさん裏切ってくれた映画だと思う。
レイチェル・マクアダムスの全力疾走が、おてんばなアリーの性格をよく表していて、他にも天真爛漫で少し我の強いところを身体から表現できていて、とても良かったと思う。
一生愛する
自分も一生死ぬまで愛しつくせるパートナーに出会いたい
遊園地で一目惚れであんな大胆な行動ができ、離れてしまった恋人に返信もこないのに365日毎日手紙を書く、かっこいい男だと思った
最後で思い切り泣きました
語彙が足りない。足りなすぎてこの良さを表現するにはおこがましい程。
観覧車であんな行動を取る男性に惹かれる。やっぱりみんながしないことをしちゃう人が好き。
かわいい子に怖気付かないで自由がないとハッキリ言えるノアみたいな人は現実正直少ない。自分の芯を持っているし本人からも自由が溢れていて惹かれる。
車道に寝転んで轢かれそうになって二人で笑って、踊るシーンは若さにあふれていて、私ならこの夜が永遠だったらいいのにと思ってしまう。そのまま音楽が続くところも好き。あの曲はなんだっけ。
二人は真反対だった。ケンカもした。しかしそれよりも二人はお互いを愛しあっていたのだ。
この言葉がとても響いた。なぜならその後の車でのシーンでよくそれが伝わってくるから笑
身分の偏見や仕事の偏見でその人を見る人はおかしいと思う。改めて思った。そのせいで別れなければならなかった、けれどそれがかえって2人の関係を続かせたのではないかと思う。
ものすごく好きなのに、会えないほうがかえって相手を思い出すから。毎日一緒に居られる日々も良いがそのうち飽きがくる。
別れ際にアリーが怒って強がってしまうところは自分に似ていて、必ず後悔する。そんなところが見ていて共感できるしもどかしかった。「あちゃー言っちゃった」ってカンジ。
お母さんも実は同じような経験をしていたことに驚いたと言うよりもお母さんが何を伝えたかったのか、それを汲み取ることができたような気がする。けれどそれを言葉にできないのがとてももどかしい。
白い大きな家をニコリとももせず怒り狂ったように建て続けるノアの怒りは計り知れないなと思って笑いながら見ていた。
だからこそアリーが戻ってきて、戻ろうとするときに「ここにきてまた振り出しに戻るのかよ」と言うセリフがとても沁みた。またアリーの気を引くものを探さなくてはいけない苦労を知っているから。
私が1番好きなシーン、
2人は小船に乗って雨に振られて船着場で言い争う。お互いの気持ちがわかってそのまま家になだれ込んでするシーン。
お互いの行動を知り、誤解が溶けて
憎んでいた気持ちから再び熱く燃え上がっていく心の変化に私も胸が高揚した。激しく言い争っていたから余計にその変化がはっきりと見えた。
気づいたら自分がすごく好きだった人をノアに当てはめて、自分はアリーになっていた。
一緒にケンカして、ノアの言葉をあの人が言っているように思ったら、泣いていた。あの人はノア程私を好きでいてくれたのかなあ。服を脱がせる手もおぼつかないくらい好きでいてくれたのなら、私は心が幸せで苦しくて泣いてしまう。二人を心から好きだった人と自分に置き換えてみることをオススメします。会いたくなります。
次に好きなシーン。
おじいちゃんとおばあちゃんになったノアとアリーが一瞬の幸せを取り戻すシーン。
アリーは、ノアとロンの間で気持ちが大きく揺らぐ。
本を閉じてデュークが「めでたし、めでたし」というと老女は、何かを思い出したように「そうよ、そうだわ」という。それがこのシーン。
ベッドで寝ていたノアが、何かの物音に気づき外に出るとそこには、荷物をまとめて出てきたアリーの姿があった。「30年後、40年後誰といたい?」という問いかけに答えを出したアリーにニヤケながら盛大な拍手を送った。ノアといたいと。それと車から出てくるちょっと不貞腐れた顔がかわいかった。ロンは本当かわいそうに尽きる。
そこでアリーおばあさんが「思い出した。私たち…それ、私たちね」と言って涙を流すシーンはもう「ウッ、、」ときた。泣かずにはいられない。やっと自分を思い出してくれたのだから。(大恋愛みたい)悲しげなピアノの曲を聴いた時点このおばあちゃんがアリーだとハッキリ分かっていたけれど、ここでスカッとした。「だよねぇ〜〜〜」と思いながら泣いた。
ここのセリフも雰囲気も、当時の二人と今の状況の二人が重なって、切なくて面白い。めでたしめでたしの気持ち。
アリー:「ノア、私どうしたの?」
ノア:「少し遠くに行ってただけさ。」
アリー:「残りの時間は?」
ノア:「どうかな、前は5分もたなかった」
そこでノアは、僕達の曲だよといってあの道路の上で踊った曲を流すところが変わってないなと思わせてくれて、ここに来てこの曲を思い出させるなんてずるい映画だな〜と思った。
けれど、数分後再びアリーは思い出を忘れてしまう。
ノアは、騒ぎ出したアリーを看護師たちが押さえつけ、鎮静剤を投与されるのを涙をこらえながら見ていることしか出来ない。その束の間の幸せが終わるシーンが虚しさと切なさとを両方味あわせた。
あの看護師さんの言動も大好き。アリーに会いたいノアに「夜は会わせられないわ。でも私は今コーヒーを入れてくるから、バカはやらないで」という黒人の看護師さん。
いやいや、あんた最高かって。こういう茶目っ気があって、いい手助けしちゃう脇役が大大大好き。
それで、アリーの部屋に行くと彼女は奇跡的に記憶をまた取り戻していた。アリーは、「私たち一緒に死ねるかしら」と聞くとノアは「私たちの愛に不可能は無い」と、アリーと手をつないだまま、彼女の隣で横になって眠る。
そして、死ぬ時まで手を繋いでお互いを愛し続ける二人の姿に涙がなぜか止まらなかった。これは涙の理由がはっきりと言葉にできない。もう言葉にするまでもなく、そのシーン全てに、見て分かるように二人の愛が表現されていたからなのだと思う。
こんなに大きく揺さぶられた映画は初めてでした。
今まで恋愛をしてこなかった私は、ロマンス映画や本漫画、そういうものが大嫌いでした。
でも、初めて本気で人を好きになってようやくその良さに、その美しさと切なさに気づくことができた。愛を知った。あんなに嫌だったロマンス映画なのに。本当に色々なことをこの映画は教えてくれたけれど、それに意味を持たせてくれたのは好きな人だったなと気づきました。
映画を作品と呼ぶ理由が最近になってやっと分かりました。映画はアートであり、人の人生と自分の人生を覗けるものです。
最上級の人生
ただただ憧れた。
自分の感じる愛をただただ信じて
他の誰でもない自分が選びたい選択肢を選ぶ
最高の人生の生き方に憧れた。
「うまくやるのは難しい。努力が必要だ。でも俺は努力したい。ずっと君が欲しいから。一緒にいたいから」
そんな素敵な言葉の組み合わせ方があるのか、と思った。
自分が命懸けで愛した人と最後まで離れない。
なんだか当たり前ででもそれには努力が必要で並大抵の気持ちでは本当には愛しぬけない。
最後までノアとアリーは生きていた。
自分の人生を実感して、愛を絶やさず人生を生きていた。
私の言葉では素晴らしかった、以外に出てこない。
本当に素晴らしかった。
映画が教えてくれる言葉は凄い。
私の人生にはない言葉をくれる。
ぜひ、これは字幕で見て欲しい。
全編にわたって音楽が美しい
出逢ってから結ばれるまでと終焉にだけスポットを当てた純愛ストーリー。
いつの年代も感情の起伏が激しいアリーをノアが優しく時には力強く包み込み、そしてそれは最期まで続いた。
読み聞かせていた物もノアが書いた本ではなく実はアリーの日記だったところも良かった。
ただかなりはじめの段階で老人二人が誰だか分かって結末が見えてしまい、驚きもなければ感動も薄れてしまった。
7年振りにノアに会いに行くきっかけも新聞の家を売却する広告を見たわけだが、月9にありそうな偶然ネタで、大事な再会なんだからもう少し何かなかったのか…
学生が観た感想‼️
今回は泣ける映画として評価が高かったので気になり鑑賞しました。率直に言うと泣くことはできませんでした。しかし、感動はしました。
日本ではありえないような声のかけ方、路上で横になるなど彼らの自由さがにじみ出てよかった。身分の違いに悩む恋愛はいってしまうとパターンは見えてしまう。
反対してたお母さんも実はみたいなのもまぁ珍しい展開ではない。でもベタだからこその良さもあり、この映画はとても美しい作品になってると思う。こういう作品は観ておいて損はないと思う。
最後のシーンは、神の力を感じた。と
運命の赤い糸
今の時代にナンセンスな親が子供の結婚に口を出す。
子供の気持ちを無視して引き裂く。
それでもやっぱり最後は結ばれる。永遠に離れない最後に二人が手に手を取って永眠するシーン。
本当に縁があるのならどこにいてもどんな環境でも結ばれるんだな、と妙な自信がつきました(笑)
どんなに愛し合っていたって縁がなければ切れてしまう。 悲しいかなやっぱり運命の赤い糸ってあるんだよね。
これは恋愛映画だけど、 人生において失ってしまった後悔は縁があれば取り戻す事もできる事を確信し私なりに勇気をもらった映画でもありました。
大切な人、時、物、 信じ続けて思い続けて行けば
それは永遠になるんだ!と、笑顔になれる作品でした。(感謝)
サイコーの純愛物語
お嬢様育ちのアリー、材木屋で働くノアの純愛。
アリーの親に引き裂かれアリーは別の相応の人と婚約。その時、ノアが思い出の夏に約束していた家を買い取り、改築し、ニュースになる。
それを見たアリーがノアの家に行く。
再び燃え上がる二人。
その二人の純愛話を認知症になったアリーにずっと読んでいたノア。最後はアリーの記憶が奇跡的にはっきりした時、「一緒に死ねたら」と願いを言い、二人はほーむのベッドで手を繋ぎ、愛してるという記憶と共に天国へ。泣ける。そんな老後の生活になれればいいなぁ。
映画館で見て、今日テレビ録画で見直し。
泣ける。
感動
3つの時代を行き来しながら、二人のストーリーを見ていく。
心くすぐられる愛し合う二人、別れ気持ちが伝わらないもどかしさ、一瞬だけの再開のため物語を話し続けそしてその一瞬が終わった時の辛さ。
心にくるものがたくさんあった。
終わりまでいい映画だった。
しかしどうしてもミアの婚約者が不憫に感じられてならない。
婚前交渉からの混乱
『君に読む物語』の途上というのは、最初に愛し合ったはずの二人が別れてしまったところから精神的な混乱が生じてしまう。夏に別荘に来た少女にひとめぼれしてしまった青年が強引にアプローチして恋には落ちた。しかし身分差から特に母親が壁になって、青年が365通も出した手紙を母親が隠してしまい、女は別の男と婚約する。悪くは思っていなかったが、忘れられなかった青年を新聞で目にしてしまう。そして女は青年に別れを告げつために新聞に載っていた場所に会いに行く。女のほうは別の男と婚約してしまうし、男のほうも戦争未亡人と愛人関係にある。こうして、誰かとの優劣関係が生じてしまう。ただ優劣関係が生じるうちはまだ悪の中にも善の意識は残っているのだが、それをさらに越すと「誰でも構わなく」なってしまう。誰もが同じになってしまうのだ。ここに、自由に性行為してしまう人達の逆転が生じてしまう。特別な愛は無くなってしまう。共産的な共有は誰でも同じなのである。しかし本当はそこに好意の優劣は生じて、差別が起きる。それを隠そうとする。大きな偽善への過程になるのである。なぜ一人だけを愛する事がないがしろにされて、誰とでも性行為に時間を替えたり、または同時にもしてしまえるようになるところの延長に、自由があるのだろうか。そこに特別性は無くなっている。区別が無いからみな同じとなるなら、どうして、近親〇〇や人間以外の生物との性行為との違いが区別されるのだろうか。区別はどこかにしてしまっているのだから、差別は起こっている。きっと、共産的な自由乱交にも好悪の区別は生じているはずである。無いなら、誰とでも近親〇〇でさえ同じと感じられるはずなのだ。共産的にならない段階の乱〇は、誰かを捨てる事によって誰かを傷つかせたままエゴイズムの勝利となる。その過程で加害者の癖に悲劇の当事者のように思考を反転させる事が出来てしまう。ここまでで映画の半分の所のようだが、この映画にはどんでん返しがあるようだが、脇役は傷ついていただろう。それは省略されるのかも知れない。キリストの教えは形骸化または絶滅していて、婚前交渉が複数の間でなされて行く。それを思えば、皮肉で言えば最初の恋愛の続きとして美しい作品なのかも知れない。現実はもっとひどいのだから。そういう面で最後まで一緒になれても、途上が美しくはないのである。ここに現代のフリーセックス賞賛の洗脳がある。洗脳だから誰も不思議に思わない。同じ人とでさえ「誰でも構わない」という戒律の喪失の結果なのである。よくぞここまで自由を洗脳する事が出来た。自由は人によっては簡単なのだ。女の母親は悪役のように出て来るが、それが成功して来たのだ。このように読み替えていた時代にもう反転しないといけない時代なのではないのか。もう無理か。戦争未亡人との別れのシーンが乱交のエゴイズムを途上に映している。
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