「ナチス・ドイツが蝕む鉄鋼財閥一族の崩壊劇の圧倒的人間ドラマ」地獄に堕ちた勇者ども Gustavさんの映画レビュー(感想・評価)
ナチス・ドイツが蝕む鉄鋼財閥一族の崩壊劇の圧倒的人間ドラマ
「ベニスに死す」「ルートヴィヒ」に先駆けて制作されたヴィスコンティ監督の『ドイツ三部作』の第一作目にあたり、20世紀ドイツ史において最も禍根を残した社会的激変であるナチス・ドイツの独裁政治を扱った問題作。時は1933年2月27日の国会議事堂放火事件から5月10日の焚書、そして翌年1934年6月30日の突撃隊幹部の粛清「長いナイフの夜」までを背景として、兵器製造の要である鉄鋼財閥エッセンベック家に起こる陰謀渦巻く権力と欲望の人間ドラマが展開する。その時代を知るヴィスコンティ監督は、20代後半の俳優兼美術デザインの舞台関係の仕事をしており、ジャン・ルノワール監督に出会い映画に携わる数年前になる。制作動機に関して、恐ろしい時代のことを知らない若い人のために、この映画はもっと早く作られるべきだった、と述べており長年温めてきた企画なのが分かる。21世紀の今日ヒトラーとナチスを題材とした作品は、本国ドイツでも作られるようになったようだが、当時の個人的な印象としては、触れてはいけない、おぞましい題材だったと思う。ユダヤ人大量殺戮のホロコーストの被害者側の告発映画は作られても、加害者側の隆盛を表現することは憚れていたのではないだろうか。ドイツ文化に造詣が深いイタリア人のヴィスコンティ監督が、還暦過ぎて尚も創作意欲に満ち溢れ、時代の証言に挑んだ力作である。
しかし、ヴィスコンティ監督が原案と脚本を兼ねたこのドラマは、実在のクルップ製鉄財閥をモデルにしていても、実際の出来事を描いている訳ではない。舞台やオペラ演出の実績から導かれたヴィスコンティ監督独自の創作と演出であり、それはナチス・ドイツが否定した前時代のデカダンスの人間暴露である。映画のための脚本というより舞台のための戯曲に近い。40年当主を務めるヨアヒム・フォン・エッセンベック男爵の息子の妻ゾフィーの愛人の主人公フリードリヒ・ブルックマンがゾフィーの誘惑に溺れ、親衛隊大佐ヴォルフ・フォン・アッシェンバッハの言われるがまま罪を重ねて総支配人の座に就き、そして自滅するところは、シェークスピアの『マクベス』であり、貴族の家柄がその栄華ゆえに崩壊するのはトーマス・マンの『ブッテンブローク家の人々』、そして一族の中で一際倒錯的でペドフィリアの性的嗜好も持つゾフィーの息子マルティンは、ドストエフスキーの小説からヒントを得ているという。ヒトラーは、ドイツの首相になった1933年1月30日から約1年半の短い間に、共産党や社会民主党を追放し、ナチス党単独議会の実質独裁者となって、更に軍部を一つにして権力の全て掌握した。その残忍で非情な制裁を、醜悪な財閥一族の人間ドラマとして象徴的に再現したのが、この作品である。
故にこの映画の見所は、本能の赴くまま欲望に抗わず自己主張し他人を利用するか、または貶めて自己陶酔する醜い登場人物を演じた役者の成りきりの表現力の凄みに集約される。ダーク・ボガードが「ベニスに死す」のアッシェンバッハの役に選ばれたのは、既にこのブルックマンの役柄を見事に演じたからに他ならない。理性と欲望が交錯する精神状態が最後、混乱と諦観の泥沼に陥る人間の弱さを巧みに表現する。そしてマクベス夫人を彷彿とさせるゾフィーのイングリッド・チューリンの肉体表現含め、圧巻と言わざるを得ない熱演が素晴らしい。ドイツ人に見えるイタリア女優を求めたが見つからず、イングマル・ベルイマン作品でその存在を世界的に認知させたチューリンをキャスティングしたことは、更にこの映画の完成度を上げたと言えるだろう。続いて映画の冒頭、屋敷の劇場で母ゾフィーの策略の元「嘆きの天使」のマレーネ・ディートリヒの下着姿のローラの余興をする、マルティン役のヘルムート・バーガーの美形でも異質な存在感が嵌っている。跡目争いから外されていた放蕩孫が、ナチスの魔力に飲み込まれ毅然とした親衛隊に生まれ変わるラスト。その眼は、世界征服を目指し第二次世界大戦に突入して崩壊した、ナチス・ドイツの約10年間に及ぶ暗黒の世界を直視することになる。原題の(THE DAMNED ザ・ダムド)は、神学で永遠に呪われて地獄に落ちた者を意味するという。正しく、親衛隊の幹部になったマルティンは、ナチスの運命と共に鉄鋼財閥を地獄に導いた最後の御曹司となるのである。親衛隊大佐ヴォルフ・フォン・アッシェンバッハのヘルムート・グリームは、典型的なドイツ人の容貌で、財閥一族に忍び寄り誘惑と恫喝を使いこなし、内部崩壊とナチスへの服従を策略する知謀に長けた人間の冷たさを地味に演じている。本当の悪人には、己の目的の為には手段を選ばず無感情に物事を進める怖さがある。そして、これら人間の負の部分を曝け出す登場人物を際立たせる、極普通の価値観を持つ人物が、ヨアヒム当主を大叔父にもつ重役夫人エリーザベトのシャーロット・ランプリングと、ヨアヒムの甥で副社長のコンスタンティンの息子ギュンターのルノー・ヴェルレーの二人だ。後の「さらば美しき人」や「愛の嵐」の愛憎劇の大胆な役柄を想像させない、清純な美しさと少女のような無垢さを兼ね備えた23歳の若きランプリングが演じたエリーザベトが唯一の救いだが、悲劇的な最期を迎える。この女性の儚さが的確に表現されていた。まだ未熟な演技のルノー・ヴェルレーは、前年の「個人教授」より存在感が無いのが惜しいが、ベルリン大学の学生で音楽家の役柄が、このドラマに必要だったと思われる。ひとり冷静に一族を見る客観的な立場であり、有事の社会で芸術の価値は無に等しいことを暗示している。実際ヴィスコンティ監督は10代の頃チェロを学び、相当の腕前であったという。少なからずギュンターに若い頃の監督自身を投影した役柄であるのだろう。その他、ウンベルト・オルシーニやフロリンダ・ボルカン、この作品のみだが、ヨアヒムのアルブレヒト・シェーンハルス、突撃隊幹部でもあるコンスタンティンのラインハルト・コルデホフと、ヴィスコンティ監督の演出に応えた好演を見せる。
撮影がゼフィレッリの「ロミオとジュリエット」のパスクァリーノ・デ・サンティスと初耳のアルマンド・ナンヌッティ。室内の緊迫した会話シーンをアップショットで捉えて、役者の顔を生々しく映し出す。音楽は「アラビアのロレンス」「ドクトル・ジバゴ」の巨匠モーリス・ジャールだが、他の代表作より控えめな映画音楽である。タイトルバックの溶鉱炉シーンに流れる緊張感を煽る小刻みなリズムが、マーラーの交響曲第6番の開始メロディの緊迫感を連想させます。
日本公開当時、このヴィスコンティ作品を日本で最も高く評価したのが、文豪三島由紀夫氏であった。70年安保の混乱した時代で映画はアメリカン・ニューシネマが最高潮に達し席巻した洋画界にあって、このナチス・ドイツの醜悪な演劇映画は異質だった。映画や演劇にも深い造詣と関心を持っていた三島氏がこの映画について、傑作、生涯忘れ難い、荘重、暗鬱、耽美的、醜怪、そして形容を絶するような高度の映画作品、の言葉で語られている。確かにこの映画には、他の監督ではけして描くことが出来ない圧倒的で衝撃的なシーンが連続する。その奥にある人間の醜さと美しさを感じとれば、文豪の真意に近づけるのかも知れない。個人的に惜しむらくは、翌年の日本公開の「ベニスに死す」の感想が聴かれずに、三島氏が亡くなってしまったことです。
劇中アッシェンバッハが語る、ヘーゲルから引用した台詞
“進路を妨げる路傍の花を国家は踏みにじる”
舞台演出やオペラの演出もしたヴィスコンティ監督の映画作品は、そのためか少ない。実際は撮影に本物を使いたい贅沢な演出で制作費が高くついて、映画化が困難だったのではないかと予想します。だから一作一作が貴重な遺産と言っていほど重量感があり、独自の美学があります。好きな順位で並べると
①ベニスに死す
②若者のすべて(最晩年のインタビューでヴィスコンティ監督自身一番好きと述べている)
③揺れる大地
④山猫
⑤家族の肖像
⑥イノセント
⑦夏の嵐
⑧地獄に堕ちた勇者ども
⑨ルートヴィヒ
⑩熊座の淡き星影
⑪白夜
⑫郵便配達は二度ベルを鳴らす
⑬異邦人
「ベリッシマ」は未見。