マンダレイのレビュー・感想・評価
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白人のための奴隷解放 アメリカのための民主主義
黒人は自分たちの国で暮らしてる間は自分たちが黒人だとは思いもしなかっただろうし、黒人という概念すらなかったはずだ。
白人を初めて目にして彼らの世界に連れてこられて初めて白人の肌の白さに驚き、自分たちの肌がそれに比べて黒いと認識したのだろう。
広範囲にわたりかき集められた黒人は互いに生まれも部族も異なり言葉すらお互い通じない。そんな彼らが数世代にわたり白人社会で生きていくうちに元々持っていた故郷の記憶、文化、言葉は失われ、アイデンティティーさえも失われて、そんな彼らがこの白人社会で生きていくには奴隷の身分に甘んじるしかなかっただろうし、それが彼らにとって当たり前となっていった。数世代を経て生まれながらの奴隷としてそのアイデンティティーが確立されていった。
南北戦争は元々奴隷解放が理由ではなく、保護貿易を重視する北部と、自由貿易を重視する南部との対立が主な要因だった。あくまで奴隷解放は後から派生したに過ぎない。
綿花栽培などで輸出に頼る南部に比べて奴隷労働を必要としない工業化された北部にとっては奴隷問題は南部への格好の攻撃材料だったし、人権を盾にした主張が対外的にもいいアピールとなった。リンカーンの奴隷解放宣言も反旗を翻した11州に対してだけになされたものであり、あくまで戦争を有利に運ぶためでしかなかった。すべては白人の都合で謳われた奴隷解放であり、当然解放後の奴隷の処遇などは一切考えていなかった。むしろ解放された黒人は新たに差別という問題を抱えることとなる。これがいまだ160年以上たつ今でも黒人差別がなくならないゆえんである。
そんな状況下でいまだ奴隷労働が続くマンダレイ農場の奴隷たちがグレースによる解放を喜ばないのも道理である。彼女は父と別れてこの地を自由と民主主義の地にしようと奮闘するが自分の認識の甘さを思い知ることとなる。
いくらマンダレイ農場の黒人たちに自由と民主主義を根付かせたところで、アメリカの白人社会はそうはなっていない。アメリカの自由と民主主義は白人たちのものであり黒人たちのものではなかった。それは現在も同様。それを熟知する黒人のリーダーウィルヘルムは、だからこそあのママの本を書いた。奴隷解放がなされたこのアメリカで奴隷たちを守るために。
ママは支配者のようで実は彼ら奴隷の庇護者でもあった。そのママが失われて彼ら奴隷は代わりとなるものが必要だった。彼らは初めからグレースを開放するつもりなどなかったのである。
奴隷解放後、黒人差別は悪化の一途をたどり、公民権運動、ロス暴動、ブラックライブズマターと、いまだアメリカでは改善される兆しが見られない。
しかしこのマンダレイ農場の奴隷たちだけは今もこのアメリカの地で平和に暮らしていることだろう。安全な柵に囲まれて。
自分の理想を掲げて上から自由と民主主義を奴隷たちに与えようとしたグレースの姿は中東諸国に無理矢理民主主義を輸出しようとしたアメリカの姿と被った。
アメリカは対テロ戦争の名のもとにアフガンに侵攻したが、タリバンを排除して自分たちの傀儡政権の樹立のためには別の大義が必要となった。そこで目を付けたのが女性の人権侵害である。イスラムの教えの元、蹂躙されていた女性の人権の解放、民主化を謳い、それを大義としたのだ。リンカーンが南北戦争で奴隷解放を大義としたように。
しかし中東には中東独特の歴史や文化があり、たとえ人権的に不完全なものであっても外からの介入で無理やり変えようとすれば混乱を生じさせるだけである。時間がかかってもその国の人々にゆだねるしか道はないのである。
いまだアメリカは日本という一番の傀儡国家建設成功例の記憶が呪縛となってるようだ。
散々引っ掻き回したあげくに無責任にアフガンやイラクから撤退したアメリカのようにグレースもマンダレイから逃げ出そうとする。しかし彼女には奴隷たちを解放した責任をとってもらわねばならない。この白人社会が本当に黒人を受け入れられる時が来るまで。
誰にも響かない、グレースの余計なお世話
一応は続編、前作に引き続きニコール・キッドマンがグレースを演じていたら、ジェームズ・カーンの代わりはデフォーでウド・キアやクロエ・セヴィニーの無駄に思える配置、独り善がりの偽善者が最後は呆れ返って尻尾巻いて逃げちゃった感、救いのない終わり方を想像しながらグレースを見離さないトリアーが見事彼女の脱出に成功!?
正義を貫く行動が全てに於いて正しいと信じて疑わない押し付けがましい献身的な自己満足感、全てに幻滅した諦めモードで我を取り戻す、アメリカの奴隷制度や黒人に対する人種差別、多数決による自由主義を皮肉る態度のトリアーが二部作にする理由に本来は三部作?
まずは他人を尊重して理解することが大切なのかなぁ、自分本位に決めつけちゃダメな訳で色々な事柄に当て嵌まる物語、価値観が近い方で徒党を組んだら争いも起き難いだろう。
あードッグヴィルきつかったな〜
あードッグヴィルきつかったなぁ〜。
次のフォントリアー作品観るか!って思ったら
ドッグヴィルの続きかい!悪夢続くじゃん。(グレースも同じ様に思ったかも)
しかもキャスト変わってるし。ウド・キアいるのに別の役になってるし…ってしばらく混乱したけど
前作にひきつづき引き算されまくったルックも継続で舞台の様な公演によってキャストが変わって世界観の見え方も変わる感じで面白い。
でもニコール・キッドマンのグレースがあまりに強すぎてたのでブライス・ダラス・ハワードが幼く儚い感じに見えてしまいドッグヴィルの直後の話なのに前日譚みたいに感じてしまう。
内容は奴隷制度と人種問題に深く切り込んでいるので、軽々しく感想を言いづらいが
アメリカ映画でたびたび問題になる黒人を救済する白人の構図に対してのフォントリアーの見方を感じられるような気がする。
ドッグヴィルもそうだが、実際に生きている人々のポートレートが連続で写し出されるエンディングは本編を観たあとに観るとすごくゾワゾワして居心地の悪い気分にさせられる。
配信で鑑賞
ドッグヴィルの衝撃よりは弱かったような気もするけど、アメリカ批判の精神は健在。
前作『ドッグヴィル』では、主人公グレースが一般市民で父のギャングスターがアメリカそのものであるというわかりやすい構図になっていましたが、それよりも痛烈な批判となっていると聞いていたので、その真相を見極めるため身構えて鑑賞してしまいました。すると、冒頭から奴隷制度がなくなっていないアメリカ南部の町マンダレイへの介入。グレース(ブライス・ダラス・ハワード)がアメリカそのものになってしまった・・・
奴隷解放宣言がなされ憲法が修正されても未だに白人から奴隷扱いされていた黒人たちが働く大農園。支配者であるママが死んでからは、グレースとギャングの子分たちが残り、民主主義を徹底指導するようになるが、隷属関係に慣れすぎていた彼らはとまどうばかり。なんでもかんでも多数決が全てを決定するといったことを教えるのです。
横暴な政策、多少の失敗はあっても決定権は民主主義にある。それが甘い幻想であるとグレースが気づいたのは、ある少女の死。ウィルダという黒人女性が肺炎になった少女の食料を奪ってしまったのが原因と、ウィルダが家族たちからの怒りを買ったのだが、表決には逆らえないグレース。あくまでも中立の立場である自分が刑を執行しなければならなかった・・・
自分の価値観をそのまま押し付けるやり方は、現代に喩えるとアメリカがイラクに対して行ってる政策そのものだと取れるのですが、実は敗戦後の日本に対するアメリカの姿のほうが近いのではないかと感じてしまいました。序盤にグレースの父(ウィレム・デフォー)が言っていたことと妙に符合してしまうからなのです。これは深く考えすぎると日本の憲法問題にまで発展してしまいそうなのでやめておきますが、要するにアメリカの独善的なやり方の無意味さを訴えているのでしょう。
黒人奴隷問題を訴え、普通ならグレースに感情移入してしまう手法によって、最終章でどんでん返しを見せつけてくれる。また、エンドロールの背景映像では虐げられた黒人の映像。最終章だけ切り取ってしまうと、普通の人種問題を描いた社会派映画になってしまうところも面白い。ただ、最悪の状況になりさえしなければ支配される方が楽だと考える人々も問題があるような・・・やはりアメリカべったりの日本の姿なのかな・・・
【2006年6月映画館にて】
奴隷でいる幸せ
アメリカの正義や白人型民主主義への皮肉たっぷりな今作品。
でも、評論する側に回る私自身はいったいどうなんだろう。
まだ会社を辞める準備ができていない。人には役割があるから、私が敢えてやらなくても良い。最悪を逃れたいから、嫌でも会社にしがみつき社畜として生涯を終える。
つまり、この作品はアメリカだけに限った話ではなく、私自身の話とも取れます。
人が生きていくためには、自由は不自由でしかない。生きていくには、与えられた役割を演じ続けるしかない。最悪を逃れるのが、最善な方法である。
自分で決定し自分で責任を負いたがる人間は、極めて少数派。そして、人生はしんどい。決めるのはしんどい。だからこそ、神や権力者やリーダーを自ら渇望して、自らの失敗のしんどさを軽減させるのです。
戦後、アメリカによって民主主義を与えられた日本人、いや私が、作品に出てくる黒人奴隷と被って見えました。奴隷でいることの幸せとは?トリアーは、相変わらず辛辣です。
Lars von Trierの性欲・欲情・肉欲描写、ほんとうに好き
16年18本目は大好きな監督であるLars von Trierの傑作「ドッグヴィル」の続編。本作も超社会派映画。今回は前回よりも批判対象が明確で黒人差別を扱い民主主義が必ずしも正解とは限らないというのをまじまじと見せられる。観客やグレースの正義ががらがらと崩れ落ちる。皮肉たっぷりの米批判。
前作の主人公グレース役を演じたのは御存知ニコールキッドマン。今作は同じ人物をブライスダラスハワードが演じてるんだけど、ルックスはちょっぴりキュートさが入ったわりにグレースがドッグヴィルでの経験を活かしてちょっぴり強く逞しくなってるのでちょっぴり感動しています。
ドッグヴィルほどラストの衝撃はないものの流石Lars von Trier、ラストのカタルシスを持ってくるのが非常にうまい。個人的に、本作では殆ど“ムカつく住人”が登場しなかったので前作ほど劇中のムカムカや苛立ちはしなかった分観やすいけどやっぱ前作観てから観て欲しい
「ドッグヴィル」でグレースや観客は圧倒的権力の賢い使い方やその恐ろしさを学んだはずなのに、「マンダレイ」で圧倒的権力の別の役割というか違う形での存在を見せ付けられたというか。権力的上位者に従ってる人って必ずしも可哀想な弱者なのか?虐げられる立場ゆえの得・幸福って?
人種差別の観点から考えようとするなら狭い日本で暮らす平成生まれの日本人であるわたしには少し想像に難しいところがあるかも知れないが、権力者vs従者という少し抽象的な見方をするなら共感出来る。自由の為の抑圧って矛盾してるようで絶対必要なんだよね、たぶん。
映画的ショッキングは前作に比べて減少したとおもうけど、やっぱりLars von Trier好きだな〜〜と思った。前作はルサンチマン描写が相当大きくてそれが見所だったようにおもうけど、今回はそれがあまり見受けられない、それがこの映画のキモなのね〜。
だれにでもそれぞれ道徳観や倫理観は存在するんだろうけどわたしは政治観みたいのはそんなに強くなくて、民主主義ええんでないの?くらいの考えだったんだけど、本作を観てると必ずしもそうではないなと悲しくなった。ちなみにやはり、私は多数決で何か決めるのあまり好きではないです。
あと、Lars von Trierの性欲・欲情・肉欲描写、ほんとうに好き
早く続きが観たい!
「ドッグヴィル」よりは落ちた印象。迷い込んだ小さなコミュニティでGraceの存在によって異常ながらしっかりと成り立っていた世界が崩壊してゆくという同じような構図ながら、前作が不可抗力により巻き込まれた事件だったのに対しこちらは彼女の考えなしの行動により自体は悪化したわけで、なんだか感情移入ができなかった。そしてこちらではGraceはかなり感情を露わにしてしまっている印象があった。
しかし彼女がドッグヴィルで一種救われた民主主義という制度がマンダレイを壊してゆくという、このシリーズの世界がどんどん崩れていくのが面白い。彼女はどこへゆくのか。早く完結編が観たい!
Nichole Kidmanじゃないのはヌードの関係とかあるのかもしれないけど、同じ人がいっぱい出てくるのは何故?演劇性を出すため?なんだか違和感があった。
手法とかはとてもいいのだけど...
ドッグヴィルの時からうっすら感じてたことなんだけど...
この主人公嫌い...。
そして、伝えたいことがよくわからなかった。
アメリカの人種差別を身を持って感じたことがないような日本人が見ても伝わらないのでしょうか。
やっぱり!
レンタルDVDのパッケージの解説を見て「あれ~これ観たことあるかも?」と思ったらドックウィルの続編でした
。(しかも、このマンダレイの続きもあるんだとか、ビックリ!)
こーゆのって何だか運命を感じます。
前回のグレースはひたすら可哀想で
「お父さん冷た過ぎない?」と思ったものですが、今回マダガスカルを観てなんとなーく分かるパパの気持ち……
グレースって
宗教や悪い男に入れあげてる人間、特有の、『言ってもきかない頑固さ』がある。
だから「自分で、痛い目にあって分かるまで、ほっておこう」って感じになるのでは?……
今回のグレースは何だかコメディチック(σ≧▽≦)σ
この映画、独特の時代背景を
ベースにした人間成長記、『グレースの底抜け珍道中』みたいに感じるのは私だけでしょうか?
結構好きです。
考えさせる内容で、ドッグヴィルに比べるとソフトです。世の中の偽善を見抜く監督の視点の鋭さには脱帽です。ただ、実際にアメリカにおける黒人の問題を肌で感じた人でないとなかなか伝わりにくい内容かもしれません。
私はアメリカ在住ではなく、月に二回行くほどですが、なんとなく雰囲気はわかりますし、現在住んでいる国でも人種の問題はあるにはあります。が、「虐げられている人種→可愛そう、守ってあげなきゃ→世の中間違ってる、正さなきゃ」という考えだけではうまくいかないんですよね。かわいそうだから、じゃあ人権だとかを教えてあげて、尊重してあげて、そしたら世の中すぐによくなるに決まってるじゃない、そういう傲慢な考えには偽善が付きまとい、決まって落とし穴があります。そしてそういういわゆる正しい人間ほど、その後の尻拭いをしない。
その辺をはっきりいえばいうほど攻撃の対象になってしまうのは世の常ですが、この映画はちゃんとやっていますよね。勇気あるなあ。
ドッグヴィルよりさらに嫌い。
ドッグヴィルの二作目にあたる本作、ニコールは降板し、代わりにロン・ハワード監督の娘さんが主演を体張ってやってます。
前作はあくまで一つの寓話としてどこか中立的な趣がありましたが、これは簡単に反米映画であることがわかります。「トリアー監督、アメリカ嫌いなの?ふ~ん、そっか~」って感じでずっと観てましたが、途中からの展開が趣味わるすぎです。あまりの趣味のわるさにこちらもお冠状態。
独善的な映画の典型ではないでしょうか。
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