淑女は何を忘れたかのレビュー・感想・評価
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小津監督の「技の序章」を感じる。
⚪︎作品全体
どことなく、この後続く小津作品のプロトタイプ的作品のように感じた。
もちろんこの作品だけで物語として完結しているし、未完成とは思っていないけれど、たとえば『東京物語』のような人物配置が、本作にはある。
『東京物語』では父母とその世話を避ける子供たちの間に、父母の心情を代弁するように紀子がいた。物語の潤滑剤でもあり父母の扱いから感じる観客のフラストレーションをほぐすような役割で、ただ単に「いやな扱いを受けるだけ」の苦しい作品にしていない。
本作も同様に、「かかあ天下」による夫のフラストレーションをほだす役割として節子がいる。当事者間ではないものの深く関わり、時に手を差し伸べる…この小津作品にある「ほだし」の上手さが、本作にもあった。
そして本作の個性と言えるのは「モガ・節子」の影響力だろう。関西弁で夫婦間に切り込んでいく節子は、夫・小宮に強い影響を与える。観客へも戸惑いと爽快感を与える節子は、極度な「かかあ天下」を変える説得力を持っていた。
優しく包容力のある夫像は本作から始まったものではないかもしれないが、小津作品特有のものだし、夫婦の和解も劇的に描いていないところが、例えば『お茶漬けの味』にも通ずる。終盤の夫婦の和解の仕方も上手い。一度強硬な態度を見せつつも、静かに叩いたことを謝り、理解を求める。そこでまた一悶着できそうだが、節子の言葉もあり、妻・時子は穏やかに反省する。
ドラマティックな場面だが、極端にはしない。日々の生活の中で起こったことを静かに着地させていくそのしなやかさこそ、小津作品の妙味だと改めて思った。
当事者間の問題を若い人がほだして、最後は穏やかに解決する。当事者間だけの対立の方がドラマティックに作れることもあるし、説得力という意味では老齢な人物の方が良いのかもしれない。
しかし小津監督は、本作の小宮のように「逆手」を使って物語を円満にするわけだ。この作品以降も数々の名作を残す小津監督の「逆手」的な技を、垣間見た気がした。
⚪︎カメラワークとか
・小津作品には珍しく、小宮の部屋のレイアウトはなんだか少し難しそうに感じた。小宮の机と、その前にある長椅子しか人物がいられる場所はほとんどなくて、少し窮屈に見えた。カメラの置く場所が横位置にしかならない。これが小宮と相手が心的に対立してるとかならわかるけどそういうわけでもないし。
・芸者の芸事を見ているカットはこだわりを感じた。手前から奥に全員映るように綺麗に並ばせて、真ん中にいる芸者への集中線みたいになってた。
・ラストの時子へ訪ねる節子と小宮のカットは面白かった。火鉢を見つめる時この後ろは開かれてるけど暖簾がある。完全に塞ぎ込んでるわけではないけど、きちんと時子のスペースがあって、少し入りづらい印象にしている。そこを出たり入ったりする節子と小宮のちょっと気まずい感じ。
・ファーストカットが車につけた固定カメラだった。小津作品には珍しい気がする。
⚪︎その他
・家長制度真っ只中に公開された本作を当時のお父さんたちはどう感じたのか気になる。
・仲直りした後に新聞を立てて遊ぶ小宮がとても良い。浮かれてるっていう表現の仕方が可愛い。その後にそれを見る節子の容赦ない態度も面白い。
・小津作品の仲直りの見せ方が本当に好きだなあ。優しさと照れがすごく自然にある気がする。いくらでもドラマティックにできるのに、それをやらずに登場人物の性格にキチンと沿うようなアイデアが素晴らしい。
タイトルなし(ネタバレ)
1937年?
大日本帝国が「中国大陸への野望」を実行し始めた時。
大政翼賛会の1940年までの自由を謳歌している表現なんだろうなぁ。
地球儀で遊ぶ子供達。1940年に「独裁者」がリスペクトしている?
1936年に226事件が起こるわけだが、チャップリンは515事件の1932年に来日して、515事件には遭遇している。
さて、小津安二郎作品で「男が女を殴る」場面。
唯一?
さぁ、それをどう捉えるかが問題である。
殴る男社会を謝る男。
「淑女」と「レディーファースト」
「モガ」と「アプレゲール」
なんか異様。
「殴られ喜ぶ淑女」
なんか異様。
やはり、小津安二郎監督作品は素晴らしい。
「早慶戦、うち早稲田好き。」まさか、脱亜入欧に対するアイロニー?
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