「再生をかけアフリカ大陸とセックスする男女」シェルタリング・スカイ 徒然草枕さんの映画レビュー(感想・評価)
再生をかけアフリカ大陸とセックスする男女
本作は前半だけなら、倦怠期を迎えた夫婦が異国の地で愛を再確認していくロードムービーで片付けられただろう。しかし、後半になると訳が分からなくなる。
訳の分からなさの最大の理由は、キットがサハラ砂漠の民の中に身を投じ、そこから救出されながらも、友人と会おうともせず現地の町に彷徨い歩いて行ってしまうことだ。
誰もキットの心情をあれこれ想像するが、行きつくところは自暴自棄とか、欧米式生活に嫌気がさしたとか、現地に溶け込みたくなったとかの動機にしか辿り着けないだろう。そしてそれらの説得力、リアリティの希薄さに気づき、作品評価を放棄してしまう。
え、お前はどうなんだって? 小生もだいたいそのような結論に辿り着いたのですが…自分を納得させるために、ここで屁理屈を捏ね回してみましょうか。
キットとポートは自分たちを観光客ではなく旅行者だと規定する。それは、ことによっては旅行先に定住してしまうかもしれないことを意味する。
彼らはアフリカの不思議な色の空の下でセックスするのだが、それはあたかもアフリカ大陸そのものとセックスしているように見えないだろうか。
その時ポートは、「あの空はぼくたちを守っている。しかし、その先は虚無だ。夜があるだけ」と語る。2人を庇護する空(シェルタリング・スカイ)とは何を意味するか。アフリカ世界ではなかろうか。
彼らは2人に倦怠しかもたらさなかった米国の生活を捨て、新たな人生の可能性をアフリカに開こうとしたのである。
そして予想した形とは違っただろうが、2人はアフリカにおいて命懸けで愛と再生の夢を共有する羽目になる。だからポートが病死した後、キットはその夢を貫くために砂漠の民に身を投じていくのだ。
キットはサハラの昼も夜も身をもって体験し、砂漠の民の生活の基底にまで触れていく。シェルタリング・スカイのはるか先まで辿っていくのだが、それでも肌と言語の壁は乗り越えられなかった。
定住したかったのに出来なかった旅行者のキットは、それでも帰国するつもりはない。最後に「道に迷ったの?」「そうなの」という会話で見せる笑顔から、再生の実感を引き出すことはさして的外れとも言えまい。
このわかりにくい映画のテーマをまとめるなら、「キットとポートの文明を股にかけた再生の旅」となろう。
原作者ボウルズはラストで人生の有限さを説教しているが、それが主人公たちを非難しているのか、そのような冒険をしない観客を非難しているのかは、受け止め方次第である。小生は実際にアフリカを歴訪した原作者夫婦のアポロジャイと受け止めた。